著者経歴
執筆者:太極道人(たいきょく どうじん)
易経研究については、筆者のライフワークである。特定の団体等には属していない。 |
1970年、新潟市で出生。
一介の易経研究家・易者。
学生時代より易経を研究。
個人研究家であり、一切の思想団体、宗教団体、占い団体とは無関係である。
幼少期より夢で未来を知る不思議な経験をする。
また音や色や映像が相互置換される共感覚をもつ。
28歳の頃、すべてに絶望し、仕事をやめ放浪生活を送る。
そのころから易経、ユング心理学、仏教哲学などを真剣に研究するようになる。
ある運命的な経験がきっかけとなり社会復帰。
その後長らく商品開発、営業の世界に身を置く。
台湾人の妻と国際結婚、台湾で易経が占いの聖典、道教・儒教の根本経典として現代に生きていることに衝撃を受ける。
道教寺院の道士の老人から道教を教わる。
仕事の傍ら、頼まれれば易占いをし、様々な人の相談に乗る。
筆者より
科学だけで説明不能なことは数多く存在する。そして、科学で説明できないからと言って、無価値とは言えない。 |
「占い」というと、一般的には荒唐無稽な「非科学」や「疑似科学」の代表のように扱われがちですが、私自身は現実的で科学的な人間のつもりです。
私は長年、厳しい商売の世界に身を置き、そこでは数字を重視して戦略を立ててきました。
大学では社会科学を学び、理論的に物事を考える教育を受けました。
だから、私は科学的な思考を重視する人間で、科学的に根拠がないことは基本的に手を出しません。
そんな私が、「長年、易経の研究をしていて、易経占いができる」などといえば驚く人も多いです。
どうして私が易経などという「非科学的」なことを三十年以上も研究してきているかについて、少し書いておこうと思います。
実は私は幼少期から不思議な経験を多くしてきました。
私は共感覚という特質を持っており、音楽から映像が見えたり、数字から人の顔が見えたり、絵画や写真から会話やにおいや音が聞こえるなどの現象を日常的に感じる子供でありました。
また私は夢の中で未来に起こることを知る、あるいは知りようがないことを知る、といった経験を幼少期から今に至るまでしてきております。
こうした現象は、私にとってはごく当たり前に起こることで、私は子供のころはみなが自分と同じような現象を経験してきているのだと思っておりました。
しかし成長していくにつれ、自分のほうが特殊なのではないか、と気づくようになりました。
特に未来を知る夢というのは、非常に不可解で怖く感じられました。
問題は、私が経験してきているこうした現象がなんなのか?ということです。
私が経験していることは、科学的に言えば共感覚のほうはそういう脳の認識機能の人もいる、ということに最近ではなってきております。
ですが、夢に関しては、科学的には私の「思い込み」ということになるかと思います。
でも、どう考えてみても私自身の思い込みだけでは説明がつかない夢も少なからずあって、私は実はそうした自分の能力というか自分が経験している現象がなんなのかを知るために、若いころから様々な本を読み、考えてきたのです。
私に未来を教えてくれる夢は、なにか私の中に私とは違う存在がいて、教えてくれているような感覚が常にあります。
こうしたものがいったいなんなのかを知りたい、と若いころの私は常に思っておりました。
大学生になったら、そうしたことを教えてくれる先生もいるのではないか、などと思っていたのですが、大学というところは科学を前提としています。
未来予知などは科学の世界ではタブーとされる領域で、大学では私の長年の疑問に答えてくれるような授業はありませんでしたし、またそうしたことを考えているような先生にも出会えませんでした。
そんな中、ある授業で易経を紹介されました。
易経というものが、占いのテキストであるということを初めて知りました。
「易経は、現代でも中国や台湾では現実的な判断をしなければならない場面で使われている」という話に興味を持った私は、試しに自分で易経の日本語訳と竹ひごを買ってきて自分で易経占いをやってみたのでしたが、書いてあることは最初はちんぷんかんぷんで、まったくわかりませんでした。
ただ、易経は通常のおみくじや星占いとは全く異なるものであることは理解できました。
私の見る夢と易経の象徴は相通じるところが多々あるとも感じました。
それならば、日常的に自分のことを占ってみたらいいのではないかと思い、私はことあるごとに易経で自分の直面する様々な問題を占ってみることにしました。
これが私の易経研究の始まりです。
最初は面白半分でしたが、そうする中で私は次第に易経の中で出てくるキーワードについて考えるようになっていきました。
こうした研究を続けているのは、私自身が迷い多く、世界の秘密を知りたいと思う人間だからだ。 |
やがて大学を卒業した私は、二十代の後半に差し掛かった時に自分の生き方に迷いを感じ、すべてに行き詰ってしまいます。
私の中で、それまで抑制してきた「なにか」が地中深くから湧き上がってきて、実現の方向に噴火してしまったからです。
これまで実現されたがっていた「可能性」が奔流のように私を襲ったのでした。
それはそれまでの生き方を破壊し、新たな荒野を目指そうとする強い内面のエナジーでした。
私は自分を制御できなくなってしまいました。
仕事をやめた私は、どうにも身動きが取れない状況に陥ってしまいました。
それが28歳の時です。
社会的には、破綻者に近いようなものでしたが、この一年というものは私にとっては非常に重要なものでした。
この時期、私は自分がこれまでずっと知りたいと思っていた、夢のことや未来予知に関することを調べて検証する時間を得たのです。
この時期、私の無意識領域は爆発的な状況を呈していて、夢の世界もすさまじいイメージが現れてきました。
こうした夢と無意識について深く知るためにユング心理学を学んだのもこの頃です。
ユング博士の著作は、私の長年の疑問に応えてくれる部分が多く、大きな影響を私に与えました。
特に人文書院が日本語訳を出している「心理学と錬金術」については、自分の人生観に決定的と言っていいほどの影響を与えてくれたと今でも思っています。
易経に関しても、この頃ほど、自分で多くのことを占ってみた時期はありません。
そして自分の経験に照らし合わせていく形で、私は夢と同様に易経のことも少しずつ理解するようになっていきました。
易経と夢は、その象徴性という点で非常に近いものがあります。
それは自分との対話を通してだけ、必要なことに気づく一種の暗号のようなものです。
この時期に分析した自分の夢や、易経の象徴はノート数冊にも及びますが、それはとりもなおさず自分との対話であり、私はそこから非常に多くの示唆を受けました。
こうした中で易経については次第にわかってきたことがいくつかあります。
簡単にまとめれば、以下のようになると思います。
・易経が目指していることは、必ずしも人間を楽な方向に誘導することではない。人間の使命に関する部分での大きな達成に向かわせることを目指している。
・易経占いは、今現在の状況を反映する。しかし現在の状況から起こってくる未来も暗示する。
・易経占いから垣間見える未来は、現状の在り方が変われば変わる。
・易経は常に人間をある方向性に導く意図をもっており、それは中庸と呼ばれるいっさいのこだわりから解放された状況である。
・幸運も不運も常に変化していく。固定された幸運もなく、固定された不運もない。
私はやがて、ある不思議な経験がきっかけとなり、社会復帰することになります。
その後の私はハードなビジネスの世界に生きてきました。
しかし、この28歳のときの経験は大きく、私は困難な時はいつも夢や易経から自分の納得するあり方を探りながら今日まで生きてまいりました。
ブログの中でも書いておりますが、占いというものは「非科学的」なものです。
しかし、私たち人間は、科学を生きていくための手段としておりますが、私たちの存在そのものは科学だけで説明しきれるものでもありません。
易経は筮竹を無作為に二つに分ける作業、あるいはコイン三枚を布の上に落とす作業によって得られる結果に基づいて私たちの現状を象徴の上に投影するものです。
どうしてそのような手順なのか、どうしてそれで現状が示唆されると感じるのか、科学的な根拠はありません。
いつ、どこで、だれがこのようなことを考え出したのかさえまったくわかっておりません。
しかし、不思議と結果については当たります。
いや、当たるというよりも現状を反映した結果が出ると思われることが多い、といったほうがよいでしょう。
なぜそう思えるのかは、あまりに主観的なことのため、科学的には説明のしようがありません。
でも結果論としては易経占いの結果は、圧倒的に現状を反映していると思われる場合のほうが多いのは事実です。
そこには未来に関する暗示も含まれますが、一つ、重要なことは、易経の主眼は未来を予言することではなく、暗示される未来をより良い方向に変えていくところに置かれているという点です。
それは、私たちが現在の自分の在り方を変えていくことによってもたらされます。
そもそも未来とはいったいなんなのでしょう?
実は、未来というものも科学の対象外です。
数値を計測し、分析することで予測できる面は多いとしても、突然何が起こるかはわからないのが未来です。
最近の新型コロナウイルス感染症蔓延による社会の混乱や停滞を、科学は予測することもできませんでした。
また気象庁が長年、地震等の予測を研究しておりますけれど、大地震についてはいつ発生するか知るすべはありません。
未来そのものが非科学であるとするならば、あるいは非科学な方法の中にも、科学以上に未来を捉える方法はあるのかもしれません。
未来を捉える、といえば語弊があるかもしれません。
易経は、預言書ではないからです。
むしろ、未来に対する自分の納得がどこにあるのかを探るためのもの、といったほうが正しいでしょう。
真摯な態度で、正しいやり方を取れば、驚くほど易経は私たちの現状を見抜き、私たち自身が気づいていない多くのことを示唆します。
いや、示唆するように見えます。
易経が私たちの現状を示唆するかどうか、未来を暗示しているかどうかは、あくまでも私たちの主観の問題で、これを検証することは科学的には不可能です。
ですが、あるいは主観とは私たち自身の「すべて」かもしれず、科学は介在することはできない領域です。
私は易経を非科学的なものだと認めていますが、しかし易経には科学以上に私たちの主観を納得させるなにかがあると思っているので、このようなサイトを作っております。
易経は非科学的だと私は認めたうえで、価値があるかないかは、みなさんご自身に判断はゆだねようと思います。
易経は、自分自身を占うことでしか、読めない書物である。 |
易経占いの詳細については、このブログでは詳細な解説ページを作成してありますので、どなたでもご自分で易経占いを行うことが可能です。
易経についてもし関心がある方は、ぜひご自分で占いを行ってみてください。
易経は書物の形をとっておりますが、普通の書物と違い、最初から終わりまで通して読むようなものではありません。
自分で自分を占うことが、易経については唯一の正しい読み方ですし、易経がどのようなものであるかは、自分で自分の抱える問題を占ってみなければ理解することは不可能だと思います。
このブログにおける易経の内容解釈は、私がこれまでの研究、経験を踏まえて独自に書いていますが、私の易経研究はまだまだ現在進行形で続いており、いまだに新しく気づくことだらけです。
なので、内容解釈については新しく気づく点があった場合は適宜改訂していくつもりです。
また、易経の解釈については古来、非常に多くの先人が様々な解釈をしております。
私の内容解釈が完全であるとはまったく思っておりませんが、易経の内容は象徴性が強いので、私のような解釈があってもいい、とも思っております。
なので、あくまでも一つの参考としてお使いいただけたらと思っています。
いずれにしろ、易経は占うものに行動の基盤となる「納得」をもたらすために存在していると私は考えます。
どんな生き方であろうと、私たちは自分の生き方に納得して行動し、自分の人生を愛せるということがなによりも重要だと私は考えます。
易経はそのための手段だと思います。
少しでもみなさんのお役に立つようならば幸いです。
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