このブログは、基本的には易経占いに関するブログであるが、関連して「非科学であるけれども無視できない領域」についての私の意見を連載している。
輪廻転生説(前世・生まれ変わり)と、謎のアドバイス(ワイズマンの助言)は、古代から存在する!
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今回は、現代において注目されつつある「輪廻転生(リインカネーション)」仮説について考えてみたい。 |
私は幼少期より奇妙な予知夢をよく見ている。
(今現在も、である。)
また、私自身が科学的に考えたら説明がつかないような体験を数多くしてきている。
そうした体験は、現代科学においてはすべて「妄想」とされてしまう。
だが、考えてみると、私自身に関してはそうした非科学的で奇妙な体験がきっかけとなって、人生の方向性が決定していることが多いようにも思われる。
そうした不思議な体験がなんであるのかを私は長年考えてきた。
今回は少し私個人の考えをまとめておきたいと思う。
人間は経験のなかで学ぶために繰り返し生まれてくる?
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私たちの魂が輪廻転生を繰り返すとする思想は、古代から存在する。 |
私は大学生のころ、「チベット死者の書」を読んだことがある。
これはチベット仏教の奥義書であり、人間が死んだあと、どのような経緯を経て再び別の人間に生まれ変わるのか、ということを描いたものだ。
チベット仏教は、人間の輪廻転生を当たり前のこととしている。
チベットでは、宗教指導者ダライ・ラマやパンチェン・ラマも、輪廻転生によって繰り返し生まれてくると考えられている。
そうしたチベット仏教の根本経典であるから、これは私たち西欧科学を価値基準として生きている人間から見たら非常に奇妙な文献である。
「チベット死者の書」については、20世紀以降、宗教学や心理学の研究対象にもなっている。
だが、当然のことながら、それはあくまでも人類学や宗教学、あるいは古典文学としての考察の対象であって、「科学」としてはこの書の内容を検証することはできない。
当時、私がなぜこのような本を読んだかというと、祖父が亡くなったからである。
私たちはだれでもいつかは死ぬ。
しかし、身近なところで「死」に触れなければ、私たちは「自分もいつか死ぬ」という事実をなかなか考えようとはしない。
祖父が死んだとき、私は「死」ということがどういうことなのかについての関心が非常に高まっていた。
そして「チベット死者の書」の現代日本語訳を読んでみたのだった。
「チベット死者の書」には、死後、肉体を離れた私たちの「魂」が、さまざまな過程を経て再び転生する、というプロセスが克明に描かれている。
それは驚くべき内容であった。
しかし、私にはどうしても腑に落ちない点があった。
それは、「チベット死者の書」では、どうして私たちの「魂」が輪廻転生を繰り返すのか?ということに対する回答が無かったからである。
やがて大学を卒業した私は、変わり者の社長の弟子として出版社で編集の仕事をするようになった。
この出版社では、科学的に言えば「怪しげな」本も多数出版していた。
そうしたこの会社の出版物の中に、「スピリチュアリズム」に関するシリーズがあった。
「スピリチュアリズム」とは、19世紀より欧州で盛んになった一種の「新宗教」にあたるもので、私たち人間がその本体を「心霊」と呼ばれる存在に置いている、とする思想に根差している。
「スピリチュアリズム」文献の多くは、霊媒体質の人間を通じて高度に進化した霊たちが世界の真実を語るという形式をとっている。
19世紀から20世紀初頭において「スピリチュアリズム」は欧州で隆盛を極めた。
私は別に「スピリチュアリズム」の信奉者ではないので、詳細については省く。
関心がある方は、wikipediaでも以下のように詳細な説明があるので読まれてみてほしい。
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wikipedia「スピリチュアリズム」へのリンク |
私たち人間の本体は「心霊」として何度も輪廻転生を繰り返し、さまざまな人生を体験する。
そうする中で多くのことを学ぶ、というのが「スピリチュアリズム」の根本にある考え方である。
仕事の関係で「スピリチュアリズム」に触れた私には、ちょうどそれが「チベット死者の書」の欠落部分を補完する内容であるように思われた。
だが、私にはそれをそのまま「真実」として受け入れる気は起こらなかった。
私は科学的な教育を受けてきており、実証科学の対象外となることについては証明手段がなく、現実世界では妄想としか思われていないことをよく理解していたからだ。
だから、友人にもこうした話はほとんどしなかった。
酒の席で、冗談半分に触れる程度だった。
私は、直感的には「輪廻転生説」というものをあてはめたほうが人間については合理的な説明ができるのではないか、と思っていた。
しかし、自分自身にはそうした輪廻転生を実際に感じる経験がなかったので、私が輪廻転生というテーマを周囲に話すことはほとんどなかった。
娘が誕生するまでは。
個人的な体験
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現代でも私たちは「魂」という言葉を、ほぼ無意識的に使っている。 |
今現在も、こうした「輪廻転生」に関する話を他者にすることには、非常にためらいがある。
なぜならば、一般的に私たちは科学的な価値基準に従って暮らしているからだ。
私たちは、誰もがなんとなく「魂」や「死後も魂が存在する」というようなことを漠然とは思っているのかもしれない。
だが、実際に「魂」や「輪廻転生」があるのではないか?などと真面目に話したら、「狂人」とされてしまうことを私はよく知っている。
また、世間では近年特に、「スピリチュアリズム」を利用した怪しげなカリスマが多数おり、テレビやネットでもまるで芸能人のように振舞っている。
だが私から見れば、彼らが言っていることはなにかが違う。
なにが違うのか?
どう考えても、真摯な体験に根差したこととは思えないのだ。
私の直感はそれらを「作り話」だと言っている。
なぜ、私はそのように思うのか?
こうした話は、個人の内面に深くかかわるばかりか、時には他者に話したくない心の領域の核心部分にも踏み込むことになる。
本当に「魂」や「輪廻転生」について真摯な経験をしている場合、それをテレビ等に出演して軽々しく、面白おかしく話すことはできないはずである。
ひと言でいえば、テレビの芸能番組に出て話ができる類のことではないのである。
私自身の個人的な経験にしても、今回、初めて書いてみようと思うが、それはとても勇気がいることだ。
だが、みなさんに参考のために話してみようと思う。
「あなたのところに生まれていく」
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夢に出てきた女性は、私に「あなたのところに生まれていく」と言った。 |
私は十数年前に、妻との間に娘を授かった。
私たち夫婦は10年近く一緒に生活していたが、なかなか子供には恵まれなかった。
もうあきらめかけていた時、妻が妊娠した。
懐妊から半年ほど経過し、子供は順調に妻のお腹の中で育っていったが、なかなか性別まではわからなかった。
妻は、「男の子だと思う」と言っていたので、私もそうかもしれないと思っていた。
そんなある晩のこと、私は夢を見た。
夢の中で、私は白いテーブルに座ってコーヒーを飲んでいる。
私の向かいに、女性がいる。
周囲は光が多くて、全体的に白っぽく見えるが、ときどき時空が歪み、空間がきしむのがわかる。
その女性は黒を基調にしたワンピースの服を着ており、長い髪を伸ばしている。
どこかで会ったことがあるようだが、顔がはっきりとは見えない。
彼女が、ふと私に言う。
「あなたが私のことを理解してくれたことがとても嬉しかった。だから、あなたたちのところに生まれていく」
???
私には彼女がなにを言っているのか、よくわからなかった。
彼女は、「もうじき、またあなたと会える」と、強く確信を込めた口調でまた言った。
次の瞬間、突然、彼女と一緒にいた時空間から瞬間転送されたように私は目覚めた。
・・・彼女は、だれだっただろう?
私にはこの時、彼女が誰だかわからなかったが、絶対的な確信をもって、「生まれてくるのは女の子だ」と思った。
そして、この子は、私とこれまで接点があった人物が、転生して生まれてくるのだ、ということも、なぜか絶対的な確信をもって理解した。
そしてそれから四か月後、娘が誕生した。
娘は、非常に健康な状態で生まれてきたが、耳が、非常に特徴のある形をしていた。
娘には耳たぶがない。
丸い形の耳だ。
その耳を見て、私は20代の半ばに知り合ったある女性を思い出した。
私とその女性は、交際していたわけではなかったのだが、彼女が抱える大きな内面的問題に関して、いろいろとやり取りをしたことがあった。
だが、彼女はすでに亡くなっていた。
もっと私が彼女と積極的に付き合っていればよかったのかもしれない、と私は長らく後悔していた。
その女性の耳が、娘と全く同じ形の耳だったことを私は思い出したのである。
だが、・・・そのようなことがあるのだろうか?
あるのだとしたら、これは輪廻転生ということになるのだが、検証することができない。
しかし私は、娘がかつて縁があったその女性の生まれ変わりだと信じている。
また、彼女が私の娘として生まれてきたのは、私が彼女の前世で果たせなかった使命(それがなんであったのかは知る由もないが)を娘に対して果たすためである、という感覚が強い。
こんな話は妻に言ったことがない。
だが私はそうした責務を感じながら娘と接している。
それは奇妙な感覚だが、一方では強い幸福感を感じるのは不思議である。
輪廻転生説の起源は古い
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ヒンドゥー教では輪廻転生は当たり前の現象とされ、インド人の多くは信じている。 |
娘が輪廻転生で私たち夫婦のもとに生まれてきた、というのは、科学的に言えば単なる私の妄想に過ぎないであろう。
しかし、「輪廻転生」という考え方は、実は世界中で非常に普遍的にみられる考え方であり、「チベット死者の書」や「スピリチュアリズム」だけのものでもないのである。
現生人類が「科学」を絶対的な価値基準としてから、まだ300年程度しか経過していない。
それ以前の世界では、「魂」という概念は普遍的なものだった。
古代エジプトでは、やはり人間の魂が輪廻転生するという宗教観が当たり前であった。
現在のキリスト教は、「魂」という概念はあっても、「輪廻転生」については否定する。
しかし、キリスト教の基盤であるユダヤ教には輪廻転生説の残存が見られ、また中世において欧州で多数の信者がいたキリスト教異端派のカタリ派やボゴミール派は、輪廻転生説をその教義の中心としていた。
インドで膨大な数の信者がいるヒンドゥー教は、起源がわからないほど古い宗教の一つである。
ヒンドゥー教では「輪廻転生」はごく当たり前の人間の前提となっている。
ヒンドゥー教から派生した仏教においても、前提として「輪廻転生」の考え方は残存する。
日本では、性格に問題がある人物のことを「業(カルマ)が深い」と形容する。
これは、該当の人物がそのような問題のある性格をしている原因が、現世だけではなく前世にもある、という意味である。
仏教の思想的な影響がある地域においては、現代においても人々は「輪廻転生」を知らず知らずのうちに前提として生活している。
だが、そうした「輪廻転生」といったことが実際にあるかないか?
それは科学の対象とはならない。
科学が検証できることは、「現世」で発生していることに限られている。
そもそも、「死」ということは科学においては「心臓が停止し、生物が活動を停止すること」以上のものではない。
にもかかわらず、私たちは科学的には実証できなくても、「魂」という表現を使いたがる。
「魂」という概念は、「心」とは全く異なるものだ。
「心」は現世での人間の思念や感情を表すに過ぎないが、「魂」は不滅性があり、恒久の旅をし続ける存在であり、また現世以外の非科学領域をも行き来する存在である。
興味深いのは、「魂」については呼び名は異なるにせよ世界中で私たちはこの概念を自然と持っているということだ。
それは、私たちが多かれ少なかれ、「魂」という表現を用いたほうが人生を的確に言い表すことができる場合が多いからだと私は思う。
科学者の中にも、「魂」の問題について真剣に考えている人は少なからず存在する。
ユングと集合無意識
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集合無意識の概念は私たちの心の構造を解き明かすための重要なカギである。 |
C.G.ユングは、科学者としては限界に近いところまでこの問題を研究した人物である。
夢の分析や、神話の研究を通じて、ユングは人間が時に「出所不明のイメージ」や「出所不明の知識」に遭遇することがあることに気づいていた。
学生時代のユングは、「スピリチュアリズム」と関わりをもち、スピリチュアリズムの降霊会などで起こる現象に大きな関心を抱いたという。
彼は自分でも東洋的な瞑想を行った人物であるが、彼自身の夢や瞑想の中で、「年老いた賢者(Old wiseman)」と遭遇することが頻繁にあった、と言及している。
彼はあくまでも科学者としての立場を崩さなかったので、これがいったいどのような存在なのかについては、一切評価していない。
だが、ユング自身はこの「ワイズマン」と多くの対話をしており、それは彼の心理学研究においては非常に重要な体験となっていった。
ユングは「魂」や「輪廻転生」については、あくまでも科学者らしく、人間が共通して持っているイメージの一種として扱っている。
だが本当のところ彼がこうした問題をどのように捉えていたかはわからない。
ユングの「集合無意識」という考え方は、科学の対象である「現世」を飛躍しなければ出てこないものである。
仮に、私たちがすべて「集合無意識」によって繋がりあっているのだとしたら、それは心理学でいう「心」という概念ではすでに当てはまらない。
それはむしろ科学的な世界、物理学的な世界からは逸脱した「魂」に関する領域である。
むろん、ユング博士は仮説として「集合無意識」を述べているのであって、それが実証性がある、とは述べてはいない。
だが、ユング博士が残した研究は科学としては限界に近いところで宗教の根本や「魂」にまつわる問題を考えようとしている。
この流れは、さらに現代では新しい方向性をも生み出してきている。
前世療法
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ブライアン・L・ワイス博士は、科学者でありつつ前世や魂の存在についての貴重な研究を行ってきている。 |
1980年代より、「輪廻転生説」は、新たな方向性を示し始めた。
大きな役割を果たしたのは、アメリカのブライアン・L・ワイス博士である。
ワイス博士は、コロンビア大学、イェール大学を経てマイアミ大学附属病院の主席精神科医として勤務する医師であった。
彼のキャリアからすれば、非科学的な「輪廻転生説」とは対極的な経歴である。
カウンセリング等を通じて患者のトラウマを発見し、認識させるというスタンダードな治療を行う優秀な医師であったワイス博士は、その治療の手段として「退行催眠療法」という治療を行っていた。
これは、催眠状態にした患者から、現在起こっている問題のきっかけとなった過去の体験を聞き出すという治療法で、前提となっているのはフロイトに始まる「トラウマ(心理的外傷)」の考え方である。
人間は、成長過程で心に大きな傷を受けると、成人してからも継続してその影響が残る。
その原因を究明し、患者本人が認識することで困難な精神疾患を治癒させていく、というのがこの治療の目的であった。
そのために退行催眠治療では患者を催眠術で問題が発生した時期に戻させる。
しかし、ある女性患者に退行催眠を施してこの治療を行ったところ、驚くべきことに前世と思われる世界での体験を患者が語り始めた。
やがて、この女性への退行催眠を繰り返し行う中で、明らかに患者本人とは異なる謎の存在が、魂や輪廻転生に関してワイス博士に語り掛ける、という奇妙な現象が起こるようになった。
ワイス博士は、その後、多くの患者に対して「前世療法」を行い、素晴らしい治療成果を上げていたが、当初は学会での立場を考慮し、こうした臨床治療での経験を公開することをためらっていた。
だが、80年代に彼が意を決して彼のそれまでの経験を記した本を出版すると、それはたちまちベストセラーとなり、世界中に大きな反響を呼んだ。
ワイス博士は、精神疾患の原因となっていることの中には、前世でのトラウマが基となっていることが少なからずあると主張する。
むろん、ワイス博士が公表したことについては賛否両論があり、「妄想」として一蹴する人もいれば、共感を覚える人たちもいる。
科学では、「前世」というような問題はまったくの対象外であり、ワイス博士のように医師で、経歴も社会的地位もある人物がこのような見解を示すに至るということは、科学の世界では衝撃的なことであった。
まるでキリスト教の神父が、異端の信仰を崇拝しているとカミングアウトしたようなものだった。
しかし、実はこうした分野の研究報告は、ワイス博士だけにとどまらない。
前世記憶
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「前世の記憶」を持つ子供は、非常に多いのではないかと推定されている。 |
バージニア大学の精神科医であったイアン・スティーヴンソン博士は、50年代から「前世の記憶をもった子供たち」を研究し、実際の追跡調査を実施してきている。
「私は、以前は別人で、全く異なる人生を過ごしていた」と子供が言い出すことは、2歳から5歳くらいの子供によくみられるという。
子供が「自分の本当の名前は、今の名前ではない」とか、「自分の本当の両親は、別のところにいる」とか言い出したことから、親が心配し、スティーヴンソン博士のところに相談に来るケースがあった。
一般的な医学では、幼児期にありがちな妄想とされているのだが、スティーヴンソン博士はこうした現象に関心を抱き、研究を始めた。
スティーヴンソン博士が多くの子供に対して綿密な調査を行ったところ、子供の中には、自分の以前の名前、住んでいた町の名前、家族や関係者の名前を克明に記憶している子供が少なからずおり、実際に追跡調査をするとそれが事実であるケースも多々あることがわかってきた。
また、子供の前世が非英語圏であった場合、子供が前世の言語を話すことができたり、前世に覚えた歌を前世に用いていた言語にて歌うことができるといったケースも多く見られる。
少なくともスティーヴンソン博士がかかわっただけでも非常に多くの子供にこうした前世記憶がある。
そうした子供の多くは成長するにつれて前世の記憶は薄らいでいき、現在の現実の中で普通の子供として成長していくようになるという。
前世記憶を持つ子供は大きな事故で死亡した前世や、誰かに殺害されたような前世を持っていることが多いという。
そうした前世の記憶が現在の人生にトラウマとして影響することは多く、また前世で致命傷を受けた部位に、痣やほくろが残っているケースもあるという。
スティーヴンソン博士の研究は、その後もバージニア大学で受け継がれて研究が行われている。
ご関心がある方は、以下のリンクをご参照いただきたい。
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wikipedia「イアン・スティーヴンソン」へのリンク |
こうした事実は、私たちに「輪廻転生」が単なる妄想ではない可能性を示唆してくれる。
子供たちのなかには、現在の自分に生まれるにあたって、高い次元にいる存在と対話した内容を記憶している者もいる。
こうした存在はなんなのかはわからない。
しかし、それは私たちが「神」と呼ぶものと似ている。
こうした研究から導き出されることは、私たちは「魂」をある方向に進化させるために輪廻転生を繰り返している、という仮説だ。
そして、異なる次元というものが存在したり、心霊とか魂といったものが実在する可能性もある。
そうであるとしたら、私たちは今現在の生をいったいどう考えればいいのだろう?
前世、生まれ変わり、そしてワイズマンといった現象から垣間見える世界像
ここまで見てきたように、現代においては輪廻転生説は次第に科学の世界の人たちにとっても注目されつつあるのだ。
私たちは、こうしたことを自分に当てはめて考えることで、これまでとは異なる価値観を獲得することができるのかもしれない。
不可思議な世界の実態
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私たちの現在の人生は、「魂」の仮の姿の一つに過ぎない、とする考え方は、ヒンドゥー教や仏教にも見られる考え方である。 |
日本仏教の聖典とされているものの一つに、「般若心経」がある。
この経典においては、私たちが存在している世界そのものが、固定された実体ではない、という内容が語られている。
通常は、この経典の意味は、「物事に執着しない」ことを推奨している、といわれる。
しかし、仮にワイス博士やスティーヴンソン博士が経験しているように、「前世」が存在し、そして私たちが「輪廻転生」を繰り返す存在だとしたら、世界の実態は私たちが科学的に教えられているものとは大きく異なっているということになる。
それがいったい、どういうメカニズムに基づくものなのかは、現代科学では説明できないであろう。
注目すべき点は、ワイス博士の患者も、スティーヴンソン博士の患者も、現在の人生に至る際に、なんらか「ワイズマン」と対話したり、「ワイズマン」を通じて課題を与えられて来ている。
「ワイズマン」がいったいなんなのか、その正体は不明だ。
あるいは神と呼ばれる者たちなのかもしれない。
彼らは、輪廻転生の意味を伝えたり、また霊性的なルールや価値観を伝えたりしている。
こうした存在は、すべてとつながり、すべてを把握するという点ではユングの「集合無意識」とも非常に似ている。
ワイズマンたちの見解
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現代の輪廻転生研究に登場するワイズマン。あるいは集合無意識の一つの形態なのかもしれない。 |
「ワイズマン」の伝えることには、それが異なる患者の異なるワイズマンであっても、一貫性がある。
大まかに列挙すれば、以下のようになるかもしれない。
・人間は、経験を通じて身をもって知りえたことだけが真実である。
・「魂」は、人間界において複雑な人間関係を経験するために輪廻転生する。
・一見、不運と思われる経験でも、その経験を通じて多くのことを知ることができる。
・死を恐れる必要はない。なぜならば、生は経験のために存在しているのであり、今の人生で知るべきことがなくなれば、終了する。しかし、魂としての私たちは存在し続け、さらなる経験を求めて必要があればまた転生する。
・「魂」だけの領域、すなわち私たちが「あの世」という世界は安定していて平穏な世界である。しかし進歩していけない。「魂」が進化するためには、現実世界(「現世」)において人間関係を通して様々な経験をしなければならない。
・「現世」は基本的には経験を獲得すべき世界である。したがって、すべては簡単ではないようにできている。時には対立、憎悪、悲しみも当然として発生する。その中で私たちの「魂」が学ぶ。
・私たちは、場当たり的に今を生きているわけではない。「ワイズマン」の指導を受けて、なんらかの達成を常に実現することを目的としている。
・私たちの現世には、個々人が学ぶべき課題があり、そのために人間は今の境遇にあえて生まれてくる。
・現世で「魂」の法則性に反した生き方をすれば、それは「業(カルマ)」となって残り、次の人生での課題となる。「業(カルマ)」は現実世界の中でしか解消することはできない。つまり、「あの世」では解消できない。
・魂には、ともに進化するために何世代にもわたり関係しあうグループが存在する。こうした関係にある魂は、人生における重要な場面で互いに大きな影響を与え合う。
・人間は、未熟で多くをまだ知らない。知るとは、経験を通じてでなければならない。不完全な私たちは、知るためには時には大きな試練や不運を経験しなければならない。そのことによって多くのことを知らなければならない。
こうした一貫した生に対する考え方は、いったいどこから来ているのだろう?
こうした「ワイズマン」たちはいったい何者なのか?
私たちは、いったい何者なのか?
こうした世界観の前では、私たちが普段抱いている社会的な価値観そのものが根底から変わってしまうのではないのか?
こうした考え方は、ヒンドゥー教や、キリスト教異端派だったカタリ派の世界観と非常に良く似ているし、またユングの集合無意識とも非常に近い。
易経占いを研究していると、時には不運な状況であっても、それが修行であり、未知の世界を知るために欠かせないと示唆されることは多い。
実際、易経占いではどれ一つとして無条件でいい結果を暗示する象徴はほとんどないといっていい。
易経が目指していることは、完全無欠な成功者になることではない。
むしろ、さまざまな不運も含めた経験の中で自分の納得できる地点を探していくことに易経の観点は置かれている。
そして易経のエッセンスにも、ワイズマンの教えと重なる部分が驚くほど多い。
易経だけでなく、古典的宗教の多くは同じようなエッセンスを踏襲している。
魂と遺伝子
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輪廻転生説から考えると、親子は形質としては遺伝情報に基づいていても、まったく異なる魂を持ち、それぞれが完全に独立した存在である。 |
医学的に、私たちは両親から半分ずつ遺伝子を与えられて誕生する。
当然、子供は形質的には両親と似たところをもっているし、性格的にも似た部分がある。
しかし、上記のような現代の輪廻転生説からすると、個々の魂はそれぞれが完全な独立性を持っていて、遺伝情報のように親から半分ずつ受け継いで存在するものではないらしい。
だとすれば、「親の価値観を、子が受け継ぐのが当然だ」とは言えないこととなってくる。
また逆に、親が平凡であろうが、親が愚かで最低の人物であろうが、子供はそれとは無関係に自分の魂を気高い方向へ発展させていくこともできるであろう。
なぜならば、私たちは上記の輪廻転生説に照らせば、それぞれが今の人生における「魂」としての役割と課題を与えられていて、その課題や役割は親子といえど異なっているからである。
子供は、親の形質を肉体的に受け継いでいても、魂としては独立した存在である。
親が子供に接する場合、形質的には子供は親と似ているとしても、魂はまったく独立した存在であることを理解しなければならないだろう。
むろん、親には子供に教えるべきことはたくさんある。
しかし、子供は親の所有物というわけではないし、親のコピーでもない。
独立した魂であるのだから、親と対等の尊厳を認め、付き合っていけたらいい。
しかし、この点を私たちは誤解しがちである。
「子供が親の所有物」とする考え方は、親子関係の悲劇を生む。
私は、夢で「私はあなたたちのところへ生まれていく」という奇妙なメッセージを受けた日から、娘に対してはある種の「大切な客人」という感覚が強い。
昔は私は、子供がいたらあれを習わせよう、とか、こういう学校に行かせよう、とか思っていた。
しかし、あの夢を見て娘を授かってから、子供に対する考え方がまったく変わってしまった。
彼女は私の娘ではあるけれども、彼女自身の「魂」が選んで私たち夫婦の娘として生まれてきていて、親とは完全に異なる独立した存在である。
当然、彼女には「魂」としての自立した方向性があり、それは私とも妻とも異なっているであろう。
だとすると、親の願望や価値観を子供に押し付けるのはおかしい。
彼女がやりたいようにやればいい。
したがって、習い事も彼女自身が言い出したことは習わせている。
しかし、塾通いは彼女が望まないのでさせてはいない。
彼女本人がそうしたければ話は別であるが、極力、彼女の自由意思を最大限に尊重して成長させてあげたいと思っている。
昔からのことわざにもある。
「馬を水辺まで連れていくことはできる。だが馬に水を飲ませることはできない」
魂の納得
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私たちが「魂」としての目的をもって生まれてくるとしたら、私たちはその目的に忠実に生きることで初めて人生に納得ができるのかもしれない。 |
結局のところ、私たちの本体が魂であるとして、魂はそれぞれに今の人生で学ぶべきことがあるのだとしたら、私たちは誰もが自分本来の課題や役割がある。
それは、私たちが今いる世界の尺度だけで物事を考えていては見えてこないのかもしれない。
私たち自身が、魂の課題に忠実に生きているかどうかについては、私たち自身が素直にならねばわからない。
あなたの魂が今の生き方に納得しているかどうかは、外部基準ではわからないのである。
私たちは夢という形で、自分の魂からのメッセージは常に受けている。
夢が単なる妄想ではないことをユングも繰り返し主張している。
夢は現実世界に生きる私たちに魂が送ってくる重要なメッセージである。
ユングは比較的浅いところからのメッセージを送ってくるものを無意識、ずっと深いところからメッセージを送ってくるものを集合無意識と呼んだ。
魂が少し複雑なのは、それは私たちの本体であるともいえるが、もっと大きな領域ともつながった部分があるという点だ。
私たちはそうした得体の知れないものの一部である可能性を、輪廻転生説にまつわる研究は示唆する。
私たちは本来生まれてきた目的に忠実になるべきなのかもしれない。
だが、私たちが魂の目的に沿って生きているかどうかはどこで判断すればよいのだろう?
夢はこの点で的確に魂からの評価を私たちに伝えてくる。
夢で受ける印象は、往々にして今現在の私たちが魂の要求に答えているかいないかを示していることが多い。
しかし夢だけでなく、方法はいろいろあるのだと思う。
瞑想や座禅などもそのためのことのように思える。
当然、易経占いもそのための手段の一つともいえる。
いずれにせよ私たちは、自らの魂に反する方向性を選択してもあまり意味はない。
その是非を判断することは、最終的にはあなた自身でなければできない。
それは主観だけが知ることができる。
とりあえず、このブログは易経を扱っているので、輪廻転生説は本題ではない。
魂と自分との距離を見つめる方法はたくさんある中の一つとして、このブログでは引き続き易経占いの解説をやっていこう。
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