【暦】が2025年に改まった!【新年の易経占い】をやってみよう!

2025年を迎えた。

みなさん、あけましておめでとう!

今回は、【新年の易経占い】の特集である。

2025年【新年の易経占い】の前に、人類と【暦】について考えてみる!

2025年になった。日本ではグレゴリオ暦の1月1日に新年を祝う。
2025年になった。日本ではグレゴリオ暦の1月1日に新年を祝う。

日本では、新年を迎えるにあたり、神社や仏教寺院に行き、一年の幸運を祈願する風習がある。

これは「初詣(Hatsumoude)」と呼ばれる。

日本の神社や仏教寺院では、お守りや、悪運を回避するための護符や、さまざまなグッズが販売されている。

同時に、「おみくじ(Omikuji)」がある。

これは、訪れた人たちの運気を判断する「籤」である。

「おみくじ(Omikuji)」は、原始的な占いである。

結果については、「非常に良い」「良い」「少し良い」「悪い」と通常は四段階で出る。

そして、現在の状況や、アドバイスがいろいろと書かれている。

今回は、日本は新年を迎えるということで、「カレンダー」について少し書いてみる。

同時に、新年に際して、今の自分を占ってみることをおすすめする!

【暦=カレンダー】と冬至の関係!

冬至は、新石器時代から新年の指標だった可能性が高い。
冬至は、新石器時代から新年の指標だった可能性が高い。

新年というのは年が改まるということだ。

私たちが生きる地球は、太陽の周りを回っている。

地球の自転軸が傾いているため、地球上では一年を通じて日照時間が変化する。

北半球においては、最も日照時間が長いのが6月21日頃で「夏至」と呼ばれる。

最も日照時間が短くなるのは12月21日頃で「冬至」と呼ばれる。

現在の世界の「カレンダー」の標準は、「グレゴリオ暦」だ。

この暦では「冬至」のあと10日ほどで1月1日となり、新しい年になる。

もともと、おそらくこの暦法は「冬至」の翌日を一年の始まりと考えて1月1日を定めたものと思われる。

「冬至」は、易経の考え方では「陰(Yin)」の力が最大となる時である。

しかし易経の考え方からすれば、最大となった「陰(Yin)」の下から非常に強力な「陽(Yang)」が発生する。

本来は、新たに発生した「陽(Yang)」が姿を現した「冬至」の翌日が、太陽暦の1月1日だったのだろう。

だが、みなさんもご存じのように「グレゴリオ暦」やそれ以前の「ユリウス暦」など、いわゆる「太陽暦」は実際の地球の公転周期と微妙な差異があるため、次第にズレが発生する。

そのため、四年に一度、「閏年」を設けて、一日多くする。

しかし、それでも微妙なズレは解消されない。

「太陽暦」がいつ頃始まったのかは諸説あるが、当初から考えると現代ではだいぶ差異が発生してしまったと考えられる。

現在、12月21日前後が冬至であることを考えると、10日ほどズレが生じている。

クリスマスも冬至に設定されている!

クリスマスが、冬至を基準に定められていることを意外とみな知らない。
クリスマスが、冬至を基準に定められていることを意外とみな知らない。

クリスマスも、元々は「冬至」の日に設定されていたことが記録としてわかっている。

「キリストの生誕を祝う祭り」がクリスマスであるが、キリストが実際にいつ誕生したかは諸説あり、本当のところはわかっていない。

現在のクリスマスとされている12月25日は、wikipediaには以下のように説明されている。

325年5月の第一次ニカイア公会議において、キリストの降誕を祝う日について議論された。

日付の候補は、おもなものだけでも、1月6日、2月2日、3月25日、3月28日、4月2日、4月19日、4月29日、5月20日、11月8日、11月17日、11月18日、12月25日があった。

このうち、古代共和政ローマ時代の「ローマ暦」において冬至の日とされていた12月25日が、「降誕を祝う日」として次第に定着していった。

12月25日に降誕祭を行う風習は、遅くとも354年には西方教会で始まり、4世紀末には東方教会の多くにも広まった。

欧米のキリスト教文化圏では、グレゴリオ暦の1月1日はいちおう新年だ。

だが1月1日は休日ではあっても特別ではない。

むしろ、クリスマスを事実上の新年として祝っている。

つまり、大昔から「冬至」は、新しい年を開始する基準だった。

結局、グレゴリオ暦の新年も、クリスマスも、冬至を基準としていたのだった。

だが、人類が現在使用する「カレンダー」は、地球の公転周期と微妙に整合しないため、長期間では差異を生じているのである。

こうした暦と太陽の運行のズレは、興味深い現象であるし、このことは現行の「カレンダー」が、決して完璧なものではないということの一例である。

太陰暦と「二十四節気」

中華文明圏の正月は農暦の1月1日である。
中華文明圏の正月は農暦の1月1日である。
C1815. - 投稿者自身による著作物., CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38667758による

中華文明圏では、新年は農暦(太陽太陰暦)の1月1日に合わせて祝賀が行われる。

これもまた非常に興味深い。

太陰暦は、基本的には月の満ち欠けに基づいている

しかし、月の満ち欠けは、地球が太陽の周りを周回する地球の公転周期とはまったく一致していないので、当然、太陰暦では実際の地球の公転周期とは大きなズレが生じてしまう。

そのため、太陰暦に修正をかけたのが農暦である。

農暦では三年ごとに「閏月」を設定してはいるのだが、実際の地球の公転周期とのズレは、グレゴリオ暦よりもはるかに大きい。

また、農暦だけでは夏至や冬至を設定することができない。

そこで、中華文明圏では農暦とは別に、「二十四節気」と呼ばれる太陽の動きの観察から季節を示す指標が設けられてきた。

こちらは春分点や秋分点の計測から割り出されている。

「二十四節気」が設定されたのは、学説では中国の戦国時代、紀元前4世紀だと言われている。

だが、「二十四節気」の起源はおそらくもっと古い。

なぜならば古代の遺跡の多くが、春分、秋分、夏至、冬至の計測を目的として作られているからだ。

ストーンヘンジ
ストーンヘンジ。春分と秋分、冬至と夏至を計測するシステムである。
by simonwakefield - https://www.flickr.com/photos/simonwakefield/3149066878/ (cache of original license), CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6029740による

英国のストーン・ヘンジはその代表的なものだが、世界各地に点在する「ストーン・サークル」の多くが似たような機能を持っている。

おそらく、古代世界では現代使われているような「カレンダー」という概念がなかった。

代わりに、春分や秋分の計測により、臨機応変に一年を決めていたのだと思う。

「カレンダー」とは社会的な道具であると同時に、人間の理性主義やルーチンワークへの傾倒を象徴する。

約束事を取り決める上では、「カレンダー」は無くてはならないものだ。

しかし、宇宙的な規模で考えた場合は、現在、世界の「カレンダー」のスタンダードである「グレゴリオ暦」も正確無比ではない。

だが私たちは社会を形成して生きている。

社会とは多くの「約束事」の上に成り立っている。

約束事を運営していくためには、「カレンダー」は不可欠である。

「カレンダー」が臨機応変に決まってくるのだとしたら、約束の日を設定することができないではないか!

つまり、現代的な「カレンダー」は、多分に人間の都合で宇宙の運行を規則に当てはめたものなのだ。

しかし一方で、地球は宇宙的な運動を続けている。

地球の公転は地球の自転とは一致しない微妙な周期で行われていて、地球の自転周期に合わせて地球の公転周期を説明することはできない。

にもかかわらず、私たちは「カレンダー」を定めて、宇宙を人間の「約束事」の支配下に置こうとする。

けれども人間の定める「約束事」とは、宇宙の動きを正確に示すことすらできていないのだから、皮肉なものである。

私たち人間の生存とは、こうした皮肉の上に成り立っている。

太陰暦とバイオリズム

生物のバイオリズムは、月の満ち欠けと連動している。
生物のバイオリズムは、月の満ち欠けと連動している。

アジア世界では、中華文明圏だけでなく、現在も「太陰暦」は宗教上大きな意味をもっている。

「太陰暦」の存在は、生物界のリズムが、月の満ち欠けと密接に連動していることと関連がありそうだ。

昆虫や爬虫類の産卵は、月の満ち欠けと関係していることが多い。

人間においても、女性の生理周期が月と連動していることは周知の事実だ。

「太陰暦」は、生物的なバイオリズムと関連した「カレンダー」なのだ。

そこには、人間もまた生物であるという、絶対的な事実がある。

イスラム教では、「ヒジュラ暦」という「純粋太陰暦」で宗教儀式が運営される。

これは、実に驚くべきことだ。

スタンダードな「カレンダー」である「グレゴリオ暦」は、地球の公転周期をできるだけ忠実に表そうとしたものなのに対して、「ヒジュラ暦」は徹底して「生物のバイオリズム」周期を重視している。

「ヒジュラ暦」は「理性」に対する「感情」といった観がある。

当然、社会的な「カレンダー」としては「ヒジュラ暦」は扱いづらい。

しかし、ここには私たち現代人が見落としている大きな核心的真実があるように思われる。

つまり、人間とは生物の一員なのであり、理性だけでは存在できない、ということだ。

実際、「理性」や「道理」だけでは私たちは納得しない生き物である。

にもかかわらず、私たちは頭だけで考え、数字だけで判断しようとする。

そうした現代人の考え方が、人類に危機をもたらしているのかもしれない。

経済的に富を得ても、人格が破綻している人は多い。

世界的に豊かな社会を実現しているはずの欧州の国々で、ドラッグや麻薬が蔓延している現実は、数値主義や科学や資本主義の勝利と言えるのだろうか?

私の母国である日本は、平均寿命が長い国だと言われているが、非常に多くの老人は延命治療のための薬漬けであり、死生観を持たず、自己愛しかない状態で「ただ生きているだけ」だ。

「グレゴリオ暦」に代表される西欧文明的な理性主義と合理主義は、どこかで人間の生物的な側面を無視してきているのかもしれない。

「太陰暦」の存在は、ある意味、「グレゴリオ暦」の抱えるこうした矛盾を埋め合わせるためのものなのかもしれない。

詳しい統計を取るのは難しいが、おそらく「太陰暦」で宗教行事を行っている地域のほうが、現代の欧米で起こっているような問題の発生件数は少ないのではなかろうか。

そんな気がしてならない。

易経は「二十四節気」に対応?

話を易経に戻そう。

私の個人的な意見ではあるが、易経は、本来は冬至や夏至、春分や秋分などの「太陽年」に基づいた文明の遺産である可能性が高いと思う。

易経では、「十二消息卦(12 Transition Hexagram)」と呼ばれる卦がある。

これは、ウィキペディアの図を引用すると、次のようになる。

「十二消息卦(12 Transition Hexagram)」
「十二消息卦(12 Transition Hexagram)」。(wikipediaのリンクを貼っておく。)

下から「陽(Yang)」が増えていき、すべてが「陽(Yang)」となると、今度は下に「陰(Ying)」が発生し、次第に増えていき、やがて世界は暗くなる。

だが、世界が暗黒に覆われると、今度は下に「陽(Yang)」が発生し、次第に世界はまた明るくなる。

易経のこうした思想は、一年の日照時間の推移そのものである。

「十二消息卦(12 Transition Hexagram)」は、中華文明圏の「二十四節気」と対応する形で表される。

易経と「二十四節気」が、いつからこうした相関関係をもっているのかは、誰も知らない。

しかし、新石器時代に、すでに春分や秋分、冬至や夏至を計測していた人々がいたことを考えると、むしろ「二十四節気」と易経は近い文明から出てきている可能性がある。

易経は、太陽の運行と連動している面がある。
易経は、太陽の運行と連動している面がある。

先日、冬至の日に、私の大学時代の先輩からメールをもらった。

彼は欧州での生活が長い人であるが、次のようにメールには書かれていた。

「今日は冬至だそうです。

よく考えると今後日照時間が長くなっていく、ということは、この日を一年の始めとしてもおかしくはない気がします。

どなたか知らない西洋人が決めた1月1日に縛られず、自分のカレンダーを作れないか模索中です。」

冬至は、易経では「復」という卦(Hexagram)に該当する。

冬至は最も暗い日である。

しかし、すでに日照時間は反転を開始している、と易経では捉える。

だから、一番下に「陽(Yang)」が発生した「復」を冬至とする。

「二十四節気」は、限りなく古い文明の時代から存在し、しかも「グレゴリオ暦」以上に地球の公転周期そのものだ。

ちなみに、春分は易経の「卦(Hexagram)」では「大壮(だいそう="Great Invigorating")」、夏至は「姤(こう="Coupling")」、秋分は「観("Viewing")」である。

それぞれの卦(Hexagram)の内容も非常に興味深いものがある。

中華文明圏には【暦】は三つある!

「六壬栻盤(りくじんちょくばん)」
「六壬栻盤(りくじんちょくばん)」の図
Wikiwikiyarou - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10196220による

それにしても、中華文明圏が興味深いのは、この文明の住人は「カレンダー」を現代では三つ使用していることだ!

貿易などのビジネスおよび社会運営では「グレゴリオ暦」を使用する。

宗教行事の多くは、「太陰太陽暦」と「二十四節気」を両方合わせて行われている。

これは、矛盾しているように見えて、実は最も合理的な「カレンダー」の使い方かもしれない。

いや、総合的に「人間」や「宇宙」を考えて行けば、結論的には中華文明圏の「カレンダー」の使い方のほうが正しいのかもしれない。

上述の大学の先輩には、次のように返答しようと思う。

「最近、私は、『二十四節気』が季節的な意味では一番優れていると思っています。

いろいろな季節の区切りを理解するには、『二十四節気』のように夏至と冬至、春分と秋分を基準にするしかありません。

ですが、同時に農暦に示される月の満ち欠けも、私たちのバイオリズムには重要な気がしてなりません。

実際、新月や満月は、精神的な部分で何らかの影響がありそうです。

私は、歳を取ってきて、いろいろと考えすぎなのかもしれません。

でも、グレゴリオ暦で入りきらない多くの人間の秘密がそこにはあるような気がしてなりません」

2025年に【暦】が改まったところで行う【新年の易経占い】!

日本の「おみくじ」。神社や仏教寺院に置かれている。
日本の「おみくじ」。神社や仏教寺院に置かれている。

本題に移ろう。

日本の神社や仏教寺院には「おみくじ」が置かれている。

年が新しくなる時、日本人は「おみくじ」をひいて運勢を占おうとする。

易経占いも、ある種の「おみくじ」と言えないこともない。

しかし、易経占いの判断は、必ずしも運勢の吉凶を伝えるためのものではない。

易経占いの結果は、現在の私たちの状況を反映したものである。

そして、現在の状況から暗示される未来を投影する。

易経で新年を占う!
易経で新年を占う!

ただし、重要なことは、易経占いの考え方は、現状が変更されれば、未来も変化するということである。

新年を迎えた時は、区切りの時だ。

あなたの昨日から続く現状を総括し、そしてこれから一年の未来に対してどう働きかけていくか?を考えるには最適の時期だ。

もしあなたが今、心配事を抱えているならその心配事について易経占いをやってみよう。

あなたが心配事は抱えていなくても、今のあなたの現状を考える上では易経占いは役に立つだろう。

私が実例!2025年の【新年の易経占い】!

さて、今回は実例として、私自身が新年の易経占いをやってみよう。

昨年は、いろいろと大変な一年だった。

両親は入院を繰り返した。

彼らが引き起こす様々な騒動に巻き込まれ、私はおちおち仕事もしていられない状況が続いている。

今回は、一例として、私が易経占いをどのように行っているかをみなさんにご紹介しようと思う。

私の現状

「旅(りょ="Sojourning")」は、状況が不安定で未来の方向性が定まらないことを意味する。
「旅(りょ="Sojourning")」は、状況が不安定で未来の方向性が定まらないことを意味する。

まずは、私の現状を易経で確認することとする。

この一年から見た私自身の現状を易経に訊ねてみる。

結果は、次のようになった。

出た卦(Hexagram):旅(りょ="Sojourning")

変爻(Change):上9(Upper9)

NO.56 旅(りょ="Sojourning"):旅の在り方、自分を探す旅
NO.56 旅(りょ="Sojourning"):旅の在り方、自分を探す旅

この卦(Hexagram)は、「心に安住先がない」とか、「自分探し」を意味する。

全体的に、今の私の状況は、まるで見知らぬ旅先にいるような不安定な状況ということである。

基本的な現状は、「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」にこう書かれている。

「あなたは少しだけ願いがかなう。旅の時期にあることを認識してそれにふさわしい生き方をすれば、いい結果になるだろう。」

今回は、上9(Upper9)に変爻があるので、そこに私の現状が示される。

「鳥が、巣を焼かれ居場所を失う。旅人は最初は笑っていたが、後には泣き叫び、慌てふためく。彼は連れていた牛がいなくなってしまっていることにも気づいていない。凶である。」

この易経占いの結果は、当たっている。

この一年は、まさに鳥が巣を焼かれて安住先を失うようなひどさであった。

「牛がいなくなる」という象徴は、協力者が誰もいないことを意味する。

実際、両親の問題では私の妹はまったく協力しない。

また、両親の弟妹たちは好き勝手なことばかり言っては状況を混乱させるばかりで、なにも役に立たない。

私は途方に暮れる状況でこの一年を過ごしてきたのだ。

「ひと言アドバイス」には、こうある。

「問題を次々と解決し、貯めこまないようにしよう」

さて、この易経占いの結果は、ひどく良くないように見える。

だが、重要なのはこれは、これまでの現状から見た私の現在、そして未来である。

大切なのは、結果がこうであるならば、今後をどうするか?であり、この結果に対して悲観することではない。

私は見知らぬ国を旅するように、慎重にふるまうべきである。

「ひと言アドバイス」にあるように、次々と起こってくるトラブルを迅速に処理していくしかないだろう。

私の対処法

「訟(しょう="lawsuit")」は、不毛な争いごと。
「訟(しょう="lawsuit")」は、不毛な争いごと。つまり、現在の私は両親の件では、話し合いができない状況にあることを意味する。

それでは、両親の問題への関与をせず、傍観する妹に対して、協力を求めるなりすべきではないのか?

私だけがこうした状況に置かれるというのは、法的にもおかしな話である。

口先だけ余計なことを行ってくるバカな親族についても同様で、彼らに対して私から協力を要求したらいいのではないのか?

そのような考えが私の頭をよぎる。

私は、易経占いの結果から、アイデアが浮かんだ場合、続けて易経占いをやることにしている。

最初の易経占いが「現状を知るため」であったならば、次はその結果に対する「対処法」を探るための易経占いである。

周囲の者たちに、協力を求めるのはどうであろうか?

結果は、次のようになった。

出た卦(Hexagram):訟(しょう="lawsuit")

変爻(Change):なし

訟(しょう="lawsuit"):訴訟、争いごと
NO.6 訟(しょう="lawsuit")

うーん、周囲の者たちに協力等を求めるとしても、どうやら争いになってしまう。

今回の場合は、変爻(Change)がでていないので、「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」に書かれていることがそのまま、私に対する易経の助言になる。

「あなたは公正な言い分をもっているのだが、相手と話は通じず争いになってしまっている。あなたは事態を重く見て、冷静に行動していけば吉となる。相手を打倒しようとすれば凶である。争いを解決するためには、実力者に会って、仲裁を依頼するべきである。こういう時期は大きな冒険はすべきではない。」

どうやら、妹を含めた親族たちと私との認識の差は、とても大きいようだ。

話し合いにはならない。

話し合うどころか、この件を言い出せばけんかになってしまう。

「訟(しょう="lawsuit")」は、相容れない敵対関係を意味する。

こうした場合、話し合いは不毛だ。

よほどの実力者が仲裁に入らなければ、双方の主張には隔たりがありすぎて和解は成立しない。

また、こちらから相手を攻撃しようとすれば、私自身の消耗も大きく、いいことにはならない。

ちなみに、「ひと言アドバイス」には、次のように書かれている。

「初めの段階で、相手と進む方向が同じかをよく観察しよう」

人間は、すべての人がそれぞれの性質を持っている。

性質が近い人もいれば、性質が全く異なる人もいる。

「話し合えば、相互理解できる」と一般的に言われるが、残念ながら相互理解ができない場合も多い。

私の現状では、家族や親族であっても、根本的なパーソナリティに違いがありすぎるようだ。

どちらが優れているわけではない。

だが私と妹は事実として生き方や考え方が違いすぎている。

私と親族にも大きな考え方の違いがあることを、この「訟(しょう="lawsuit")」という象徴は端的に伝えているように見える。

結論的には、彼らとの話し合いは現在は不可能である、と易経は私に告げているようだ。

私の結論

それでは、私はいったいどうするべきなのか?

見知らぬ国を旅するように、不安定な状況は頻発する。

かといって、頼れるものはいない。

総合的に考えると、今はおとなしく現状を受け入れて消耗を回避するしかないだろう。

この状況には不満がたくさんある。

しかし、私が今動けば、摩擦が生じて状況はいっそう悪化する。

不本意だが、余計なことを言わないでおとなしく我慢するしかないのではないだろうか?

ここまで考えをめぐらし、私はもう一度易経占いを行うことにする。

不本意ながら、状況を観察して、時機が来るのを待つ。

それでよろしいか?

結果は、次のようになった。

出た卦(Hexagram):无妄(むぼう="Without Embroiling")

変爻(Change):94

NO.25 无妄(むぼう="Without Embroiling"):宿命、望外の福
NO.25 无妄(むぼう="Without Embroiling")

「无妄(むぼう="Without Embroiling")」とは、「結果として、受け入れざるを得ない」という意味だ。

基本的な現状は、「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」にこう書かれている。

「あなたの願いは大いにかなう。従順に一歩退くならばいい状況がくる。退かなければ逆に災いがある。進もうとすれば不利となる。」

なにかを実行しようとしても、すべてうまくいかないし、結果は同じである。

逆に、無駄な動きを抑制して、現状を私から変えていくことはあきらめる。

現状が変更できないということは私にとっては失望的である。

だが、結果的には悪いことにならない。

そういう意味である。

64が「変爻(Change)」しているので、これが易経からの回答となる。

「あなたは、今のままおとなしく流れに従って、一歩退いた状態でいるのがいい。不本意だろうが、問題ない。」

「ひと言アドバイス」にも次のように書かれている。

「流れに逆らわないように生きよう」

一連の易経占いから言えることは、まだ当面は両親の問題で私の困難は続くだろう。

しかし、私が今、現状を変えようと行動すれば、すべて失敗する。

状況の流れに従いつつ「待つ」ということは忍耐がいる。
状況の流れに従いつつ「待つ」ということは忍耐がいる。しかし理不尽でも、余計な消耗を回避し、チャンスを待ちながら力を蓄えることもできる。

私は現状の流れに逆らわず、機会を待つしかない。

不本意であるが、今はおとなしく流れに従い、余計な消耗をしないことが結果的には私の利益につながるのである。

みなさんも【新年の易経占い】をやってみよう!

易経占いは、あなた自身との対話である。
易経占いは、あなた自身との対話である。新年に、今年の自分の方針を探る上ではみなさんの役に立つ!

私はこのブログで、「易経占いは、あなた自身との対話である」と書いてきた。

「易経占い」を私は今回みなさんに紹介したようなやり方で行っている。

まさに、私自身との対話である。

易経の使い方は、みなさんの自由である。

易経占いの結果が不吉であっても、それはあくまでも現状を反映した結果である。

未来は変えることができる。

みなさんの生き方次第でいい未来にも悪い未来にもなる。

重要なのは、みなさんが、今後どのように行動するか?という点である。

積極的に行動するべきなのか、それとも行動をしないほうがよいのか。

易経占いは、本来は未来に対する行動の判断に使用するものである。

ちょうど現在はグレゴリオ暦の1月初旬で、2025年の新年を迎えている。

グレゴリオ暦で新年を迎えた人は、これからの一年を考える上で、易経占いをしたらいい。

農暦で新年を迎える人は、春節の際に易経占いをされたらいい。

みなさんの2025年が、いい一年となることを願います!


0 件のコメント :