【人生相談】と【自分との対話】と【易経占い】

易経占いを含む「占い」は、背景に苦悩があるから行うのである。

苦悩する時、私たちは誰かに【人生相談】して問題解決を図ろうとする。

しかし、なかなかそれで問題は解決しない。

苦悩は個人的な理由で発生する場合が多く、本質的には【自分との対話】がなければ解決はしないのだ。

 【人生相談】で悩みが解決しないなら【自分との対話】としての【易経占い】をやってみないか?

8歳のころ、私はどう生きたらいいのかわからなくなってしまった・・・。
28歳のころ、私はどう生きたらいいのかわからなくなってしまった・・・。

私は、ときどき易経占い師として苦悩する人の【人生相談】をしている。

だが、実は私自身も他人のことなど言えるような人間ではないと思っている。

私には、自分がどう生きたらいいのかが完全にわからなくなってしまった時期がある。

今後のことを苦悩することは誰でもよくある話だ。

だが、私が28歳のころの苦悩は、かなり酷いものだった・・・。

もう25年以上昔の話だ。

当時、私はある出版社で編集の仕事をしていた。

その出版社は、老社長の個人事務所のような会社だった。

老社長は、出版業界でも大変な「変わり者」として知られた人だったが、私はその人の弟子として働きながらいろいろなことを教わった。

理想と現実。私たちは常にその間で苦悩する。
理想と現実。私たちは常にその間で苦悩する。

だが、老社長の出す要求は、当時の私には理解できないことがあまりにも多すぎた。

彼は、「人間の本質を知るための本を作りたい」という強い理想を持っていた。

この理想に合わない本は出版しない、という強い信念で彼は50年以上も出版社を経営してきたのである。

老社長は非常に強い信念を持っておられたからこそ、ベストセラー書籍も多く出版できたのだと思う。

私は彼の不思議な魅力に惹かれてその出版社に入社した。

老社長からは非常に多くのことを教わったと今は思っている。

しかし当時、彼が言うような本は、制作することが不可能だと私には思われた。

悩んだ末、私は老社長のもとを去ることにした。

私が28歳のときであった。

目的の喪失

どう生きて行けばいいかがわからなくなった人間は、無力だ。
どう生きて行けばいいかがわからなくなった人間は、無力だ。

出版社をやめた後、私は自分が今後どう生きて行けばいいのかがわからなくなってしまった。

私はなにもやる気が起こらなくなり、無気力な日々を過ごした。

私は老社長の「理想主義」に共感する部分があったから、彼の弟子となったのだったが、周囲の人間の大半は私の方向性を理解してはくれなかった。

そのために、私は多くの犠牲を払う必要があった。

だから、彼の「理想主義」を否定することは、私自身を否定することでもあった。

私は自分が敗北者であると思った。

私は自分が正しいのか、間違っているのか、わからなくなってしまった。

私は自分の理想とはなんなのかがわからなくなった。

もっと端的に言えば、理想を追い求めることが怖くなってしまったのだ。

人生の目的を喪失した私は、一日中寝ているような堕落した日々を過ごした。

誰かに相談しても、何も解決しなかった

この時期、私はいろんな人を訪ねた。

私は自分がどう生きていいのかわからなくなっていたので、誰かからの有益な助言が欲しかったのだ。

問題児の教育を専門とする教育家のところへ行ってみたり、山の中で農業を営む人を訪ねたり、専門のカウンセラーにカウンセリングを受けたりした。

だが、私自身がどうすればいいか、教えてくれる人は誰もいなかった。

誰かに相談しても、苦悩の解決法は出てこないものなのだ・・・。
誰かに相談しても、苦悩の解決法は出てこないものなのだ・・・。

私と会う人々が私に助言してくれるアドバイスは、どれも当時の私には役に立たなかったのである。

私は、他者に意見を求めている自分がばかばかしくなった。

自分が情けなくなり、自暴自棄に陥った。

今、当時のことを考えると、これは当然である。

「私の内面を、理解してくれる人がいるのではないか」と私は期待していた。

だが、人間はみな異なる存在基盤の上で生活している。

私たちはみな、他人のことを100パーセント理解することはできない。

そんなに都合のいい「理解者」は、いなくて当然だ。

【人生相談】は多くの場合、実は役に立たない?

【人生相談】の多くは、実は役に立たないのではないのだろうか?
【人生相談】の多くは、実は役に立たないのかもしれない。

どの国にも、「悩み相談」を職業とするする人たちがいる。

医学的には専門資格を持った「精神科医」や「カウンセラー」が【人生相談】の専門家だ。

そのほかにも、保護司をやっている人とか、教育関係者とか、神父や牧師、寺の僧侶、さらには作家とか占い師とか【人生相談】を生業とする人は世の中には多い。

しかし、当時の経験を振り返って、私は思う。

そうした【人生相談】の多くは、実は苦悩する人の役には立たないのではないのだろうか?

私たちが「悩む」のはなぜだろう?

たいていの場合、私たちの悩みは「前に進むことができない」ところに原因がある。

実は悩みとは構造自体はシンプルである。

最大の問題は、「前に進めないのはなぜか?」という点だ。

これは、個々人すべてにおいて事情が異なる。

その事情が、どういった種類のものであるかは・・・他人には理解できない。

これは当然なのだ。

私たちは、みな生きてきた背景が違う。

私たちは自分の経験の範囲内でしか、相手に共感を持てない。

私たちは自分の経験以外のことになれば、想像もつかない。

私が、あなたの内面をすべて理解することができないように、あなたも私の内面をすべて理解することができない。

結局のところ、「悩み」とは個人的な問題である。

あなたがもし、今、悩んでいるとしても、その悩みは誰かに相談しても相手には伝わらないことが多い。

結局、あなた自身の中で、「前に進む」動機が発生しなければ、あなたは前に進むことはできない。

「悩みが消える魔法」は存在しない

だが多くの人は、「誰か、悩みを解決してくれる人がいるはずだ」とか、「悩みが一瞬で消える方法があるはずだ」と思いがちだ。

現代は、こうした心理を利用して、「こうすれば、悩みが消える!」といった方式の「魔法の提案」がいたるところで「販売」されている。

有名作家や、有名カウンセラーの書いた、「悩みが消える方法」に関する本がベストセラーになる。

「占い」も、「悩みが消える魔法の占い」といったものを多く見かける。

運気を高めるアクセサリーなどというものさえある。

しかし、そうしたことは、ほとんどが・・・「嘘」である。

現代は、麻薬のような現実逃避が苦悩の解決に使われがちだ。だが、そうした解決法の多くは嘘である。
現代は、麻薬のような現実逃避が苦悩の解決に使われがちだ。だが、そうした解決法の多くは嘘である。

「前向きに生きる思考法を身に着ければ、悩みがなくなる」???といったことを提唱する人々は多い。

だが悩む人は、前向きに生きたくても、なんらかの理由でそれができないから悩むのだ。

つまり、「悩む」ということは私たちの中にある問題の本質が変化しなければ解決などしない。

正確に言えば問題そのものが変化するのではなく、問題の意味が変化する必要がある。

現代、いたるところで安売りされている「悩みが消える方法論」の多くは、この点を無視している。

「イヤなことはすべて忘れて楽しくやればいい」という「現実逃避的な悩み解消法」も多くみかける。

でも、それは単なる一時しのぎだ。

都合の悪いことから逃避して享楽に走れば悩みが消える、などというのは麻薬のようなものではないか?

抗うつ剤や精神安定剤を服用して、しばらく気分が良くなるのと同じだ。

結論的に、私たちの抱える問題に対する見解が変わらないならば、悩みはなくなりはしないのである。

フロイト派の精神分析

現代人の苦悩に対して、「心理学」と「カウンセリング」という方法論を確立したのはジークムント・フロイトである。

ジークムント・フロイト
ジークムント・フロイト。彼の学派は、現在も古典的な方法でカウンセリングを行っている。
Ludwig Grillich - Christian Lunzer (Hrsg.): Wien um 1900 - Jahrhundertwende, ALBUM Verlag für Photografie, Wien 1999, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2324952による

フロイトの学派は、現在も世界各国で「精神分析」という名の、「苦悩」の治療を行っている。

だが、みなさんはフロイト派の精神分析がどういうものか、ご存じだろうか?

フロイト派の精神分析は、厳格に日時を決めて実施される。

カウンセリングの料金も、厳格に決められている。

精神科医師は、患者をコウチソファに横にならせて、患者の話を聞く。

患者が悩みにまつわることを語るのに対して、医師は「へえ?そうですか。それで?」と相槌を打つ。

だが、医師は患者の言うことに対してはなにも意見は述べない。

とにかく、患者に話をさせる。

患者の多くは、精神分析を受ければ、医師は適切な解決法を教えてくれるのではないだろうか、と期待している。

しかし、医師は意見は何も言わない。

やがて、患者は医師に対して、腹を立てる。

私がこんなに色々話しているのに、何も教えてくれない!

この医師は、私をバカにしているのではないのか?

だが医師は、患者が腹を立てても動じることなく話を聞き続ける。

「そうですか。あなたはこの話を私にしていて、腹が立つのですね?どうしてですか?」などと医師が言うものだから、患者は余計に逆上する。

これがカウンセリングなのか?

なにも有益なことなどないじゃないか?

俺はいったい、高いカウンセリング料金を支払って、毎週こんなところになにをしにきているのだろう?

ああ、もうすべてイヤになった!

結局、カウンセリングなんて受けたところで、他人には自分の悩みなんて理解できるはずがない!!!

患者がそういう意識になってくると、結局は【人生相談】など無意味だと気づく。

そして、相談しても無意味なので、なにか患者自身が行動を起こすしかない!と患者が思うようになった時が、・・・カウンセリングの目的が達せられる瞬間であるという。

私は、この話をあるフロイト派の精神科医から直接聞いた。

非常に納得がいったのを今も覚えている。

フロイト派が考えていることは、【人生相談】においては正しい方法だ、と思った。

私たちは、一人一人が自分だけの人生を持っており、どのような苦悩にさいなまれていたとしても、人生そのものの価値はなくなることはない。

私たちは苦悩する時、結局は苦悩を脱するためになにか行動しなければならない。

私たちの「苦悩」とは、私たち自身が行動に転じなければ解決しないのである。

「苦悩」と成長

苦悩は、人間の成長に必要なものではないのだろうか?
苦悩は、人間の成長に必要なものではないのだろうか?

私たちの「苦悩」の多くは、「前進を妨げる力」が心の内部で起こっているために発生している。

そのため、行動ができなくなっている。

それは、怖れかもしれないし、戸惑いかもしれない。

たいていの場合、私たち自身が心の深いところで求めていることと、現実世界が私たちに出してくる要求が異なっている。

このギャップがあるので私たちは「苦悩」し、前に進めなくなる。

一般的には、現実に合わせて生きていく方向性を選択するしか解決方法はない。

だが、私たちは多くの現実とは異なる「固定観念」を持っている。

私たちの多くは現実と異なる自分の姿を思い描いている。

そして私たちは現実よりも自分の理想を優先しがちである。

しかし、私たちの理想は妄想に過ぎぬことも少なくはない。

あなたが苦悩している場合、あなたは実は現実を認めることができないだけなのかもしれない。

あなたの理想に対する執着が、実は苦悩の本当の原因となっていることが多いのである。

では固定観念への執着はなぜ起こっているのか?

現実に対応するためには、あなたはどうしたらいいのか?

それを認識し現実を受け入れることができなければ、あなたの「苦悩」はおそらく解消することはない。

これには多くの場合、時間が必要である。

現実を受け入れるということは、様々な角度から問題を見る必要があるからだ。

苦悩する時間がある程度なければ、私たちは気づかないことがあまりにも多いのである。

苦悩は、普遍的な現象では?

おそらくだが、あらゆる生物は生きていくために苦悩しているのではないだろうか。
おそらくだが、あらゆる生物は生きていくために苦悩しているのではないだろうか。

「苦悩」を持たない人間などいない。

人間は経験の中で、世界を知っていく。

経験せずに世界がわかる人はいない。

世界が、私たちが思っていたのと異なる場合、私たちは戸惑う。

そして怖れ、苦悩する。

そして世界を「少しだけ」受け入れることができた時、私たちはようやく前に進むことができる。

人生は、次々に起こる新しい世界の姿に触れていくことだ。

それはすなわち、次々に起こる新しい問題に直面し、苦悩していくことである。

見知らぬ世界に触れるたびに、私たちは苦悩する。

苦悩を何度も経験しながら、私たちは成長していく。

成長とは経験を通じて世界を知ることだ。

それは、苦悩を通じて世界をより深く知るようになる、ということでもある。

易経を利用した【自分との対話】のすすめ

易経は、現在の状況を暗示するが、問題にどう取り組むかはあなた自身だ。
易経は、現在の状況を暗示するが、問題にどう取り組むかはあなた自身だ。その点で、易経占いは予言でもないし、問題の答えでもない。

ほとんどの場合、私たちを取り囲む「現実世界」そのものは、変わらない。

自分に都合がいいように世界はできていない。

しかし、私たちは生き方を変えることはできる。

私たち自身が考え方を変えることはできる。

苦悩は、そうしなければ本来は解決しないものなのだ。

他者がいくら有益な意見を言ってくれたとしても、私たち自身が考え方を変化させなければ状況は変わらない。

そのためには、【自分との対話】が必要だ。

【自分との対話】は、だれでもどこでもできる。

【易経占い】は、基本的には【自分との対話】の一種である。

その目的は、私たちが「生き方を変更する」ことにある。

【易経占い】への【人生相談】は、【自分との対話】のためにある!

【易経占い】は、本来、一人で行うことを前提としたものだと思う。

私は時折、易経占い師として苦悩する人の相談に乗ることがあるが、その場合、私が筮竹を使用したり、私がコインを落とすことはない。

必ず相談者ご自身に三枚のコインを六回落としていただくことにしている。

基本的な意味や、考え方については相談者に説明するけれども、そこから先は相談者自身がどうするかの問題だ。

なるべく私自身の意見は言わない。

【易経占い】とは、ある意味フロイト派のカウンセリングと同じだと私は考えている。

【易経占い】で出てくる表現は象徴に満ちている。

表象から、なにを感じるかは、相談者自身の問題である。

【易経占い】は、まさに【自分との対話】のためにある。

象徴から、なにを感じるか?

相談者自身が、行動することに繋がるか?

それが【易経占い】では重要なのである。

体験談

私自身の「道に迷った時代」の話に戻ろう。

あの当時、私はほぼ自暴自棄の状況に陥っていた。

誰に相談しても、有益だと思えることはなにもなかった。

【人生相談】に嫌気がさした私は、【自分との対話】を始めることとなった。
【人生相談】に嫌気がさした私は、【自分との対話】を始めることとなった。

私はやがて酒を飲んでは、路上で喧嘩したりする荒んだ生活を送っていた。

ある晩のこと、私はアパートの片隅に放置されたままになっていた易経の本を少し読んでみた。

このように、なにもできなくなってしまった自分に、助言できる人間はいない。

だが、こういう状況について易経で占ってみたら、どんな回答があるのだろう?

私は無心でコインを六回落としてみた。

出てきた卦(Hexagram)は、次のようなものだった。

NO.26 大畜(だいちく="Great Accumulating"):大停止、大きな蓄え
NO.26 大畜(だいちく="Great Accumulating"):大停止、大きな蓄え

変爻(Change):出ていない

「大畜(だいちく="Great Accumulating")」は、大きな停滞や停止を意味している。

この卦(Hexagram)は、大きな力が内面から発生して上昇しようとしているが、それを押さえつける強い力が働いているので、行動ができない、という状況を意味する。

まさに、それは当時の私そのもののように思えた。

変爻(Change)が出ていないので、この場合は「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」と「ひと言アドバイス」を見て考える。

「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」は、

「王が有能な家臣を抜擢する正しい状況が出現すれば、家臣は恩恵を受ける。彼は自営せず王に仕えて吉となる。大きな冒険をしてみてもいい。」

つまり、まずは外へ出て、働いてみなさい、と易経は告げているように私には感じられた。

そして、「ひと言アドバイス」には、

「人の話をたくさん聞いて、自分を高めよう」

と書かれていた。

私は、ベッドに寝そべって考えた。

易経の「卦辞(かじ=Explanation of the Hexagram)」は、次のように私に語り掛けているように思われた。

「まずは、なんでもいいから、どこかで働いてごらん。

君は、自分の理想的な仕事があるのではないか、と思っているように見えるけれど、最初からそんな仕事はないよ。

君には今、なにができるの?

君には今できることなんて、まだないよ。

なんでもいいから、世の中で君にできることを学んだらいいじゃないか?

別に、出版関係の仕事じゃなくたっていい。

大事なのは、君のことを認めてくれる人と出会うことだ。

探してごらん。

どこかに、君を必要とする人はいるはずだ。

出版関係の仕事以外でも構わない。

君が老社長から教わったことは、どんな世界に行っても必ず役に立つさ」

現実とともに

この卦(Hexagram)の「ひと言アドバイス」は、いろんな人から学んで実力を蓄えなさい、という意味のことが書かれている。

「大畜(だいちく="Great Accumulating")」は、行き詰まり、停滞し、なにもできない状況を意味しているけれども、それは修業期間という意味でもある。

こういう状況の時は、なかなか成果は上がらないかもしれないけれども、謙虚に自分の実力を養うにはいい機会だ。

停滞の時期は、非常に重要な時期であることをこの卦(Hexagram)は暗示する。

苦悩を抜け出す扉は常にある。
苦悩を抜け出す扉は常にある。それを開くかどうかが問題なのだ。そのためには勇気がなければならない。勇気を得るには、時間も必要なのだ。

私は、老社長のところに弟子入りして編集者になるのだという信念をもって彼の会社に就職した。

そして老社長の理想について行けなくなり辞めてしまったのだけれど、一度理想や信念をもったならば、信念に忠実に生きなければならないと思っていた。

しかし、私は信念を履行する現実的な場所を失ってしまっていた。

現実的には、信念は持っていても世の中で生きていく能力が私にはまだなにもない。

それでは出版業界で生きていけないだけでなく、どんな仕事でもできなかった。

まだあまりにも経験が足らない私は、世の中では使い物にならなかった。

私はそうした自分の未熟さを認めたくなかった。

そこに、苦悩の核心はあったのだ。

私は自分の信念や理想を買ってくれるところに就職しなければならないと思い込んでいたが、まだなにも能力がなかった。

・・・だが、最初から能力がある人間はいない。

どんなことでも、どんな仕事からでも学べることはあるはずだ。

そう気づいた私は、やがてアルバイトを探し始めた。

業種にはこだわらなかった。

なにも能力を持たない私を受け入れてくれる相手のところで「なんでもやってみよう」と思ったのだ。

ひと月後、私は新宿の営業セールスの会社でアルバイトをすることになった。

私は生まれて初めて営業という仕事を体験した。

勉強になることばかりだった。

そこでは、私と同じように、自分がどう生きていいかまだわからない若者たちがアルバイトで働いていた。

新しい友人にも恵まれた。

やがて、居酒屋で知り合った人物にオファーをもらい、私はより本格的な営業の世界に入ることとなった。

そして販売営業で日本全国を旅するようになった。

不思議なことに、老社長の会社で学んだことは、営業の世界でも大変役立った。

いや、営業の世界だからこそ、老社長から学んだ「言葉の大切さ」が初めて理解できたのだと思う。

私の現在につながるパラダイムは、あの日、アパートで易経占いを行い、「大畜(だいちく="Great Accumulating")」という結果が出た日に始まっている。

勇気

「苦悩」から前進するには、時間も必要だ。

現実は変わらないのだけれども、現実に対する見方は、時間をかけねば変化できないからだ。

私が停止した状態から再起動するまでには、無気力で荒んだ一年間という長い時間が必要だった。

なにもする気が起きなくて、寝てばかりいた一年は、無駄だったように見える。

しかし、老社長の会社を辞職した直後では、前進する「勇気」はまだなかった。

あの一年があったから、私は多くのことに気づく機会を得られたのだ。

あの一年は無駄ではなかった、と今は思っている。

この期間を通じて、私は自分がなんの能力もない中途半端な人間であることを知った。

私は現実を知った。

そして、「なにもできない私」という現実を受け入れたからこそ、前進する勇気が生まれたのだと思っている。

現実を受け入れるということが、私たちにとっては意外と難しい。
現実を受け入れるということが、私たちにとっては意外と難しい。

道に迷っていた一年間、私はどう生きていいのかわからないものだから多くの本を読んだ。

近所の友人と、各地を自転車で旅をし、いろいろな世界を見て回った。

社会的には無意味な一年だったかもしれないが、この一年があったことは私自身の人生観に非常に大きな影響を与えた。

こういう経験をしなければ、私は多くのことを知らないままだった。

無意味に思われる時間にも、重要な意味があるのである。

苦悩と【自分との対話】は、正しい!

世界を知るために私たちは生きているかもしれない。
世界を知るために私たちは生きているかもしれない。そのためには必然的に私たちは苦悩するように作られているのかもしれない。一生を使っても理解できることはわずかなのかもしれない。でも少しでも世界の秘密に近づくことが、人類に与えられた義務なのかもしれない。

私は、たまに占い師をやるが、基本的に「苦悩」して道を尋ねてくる人は、どの人も「正しい」と思っている。

苦悩する人は、自分自身と現実世界の折り合いをつけるために戦っている。

私たちが生きる世界は、そうした戦いを経なければわからないことが多いのだ。

だから、「苦悩」する人は正しい過程を経験しているのである。

あなたが苦悩する時、誰かに【人生相談】し、意見を求めることも悪いことではない。

ただ、そうする場合は、「相手が答えを出してくれる」と思うべきではない。

もちろん、相手に具体的な助力を求めるのはいい。

技術的な方法論を尋ねたり、自分の考え方に対し客観的な意見を求めることは大切なことだ。

そういう意味での【人生相談】は有益だし重要だ。

だが苦悩の本質は、あなた自身の個人的な問題だ。

【人生相談】で苦悩の本質は解決しない。

問題解決は、あなた自身でなければできない。

そのことを理解するならば、【人生相談】もカウンセリングも役に立つであろう。

私たちは苦悩と闘いながら、私たち自身が行動を決定しなければならない。

あなたが一人で苦悩していようがいまいが、世界は回り続けている。

そういう意味では、私たちはみな孤独な存在なのだ。

そうした孤独感に敗北しそうなときは、夜、一人で、【易経占い】をやってみたらいい。

易経は、個人の苦悩を考えるための手段として存在していると私は考える。

【易経占い】の結果は、基本的な意味はあるが、易経に尋ねる人によって意味は千差万別である。

象徴とはそういうものだ。

基本的な意味を踏まえ、あなたがどう感じるか?が易経占いでは大切である。

【易経占い】は、決まった答えを出すためのものではない。

あなたが【自分との対話】をするための手段として存在する。

一回、【易経占い】をやっただけではなかなか苦悩は解決などしないだろう。

でも、時間を置きながら何度か易経で【自分との対話】をしていく場合、あなたの内面の変化に応じて易経の象徴も変化していく。

私たちは、世界を少しずつ少しずつ深く知るために存在しているのかもしれない。

だとしたら、私たちは本来、苦悩するようにできているのかもしれない。

苦悩から世界を知るためには、【自分との対話】が欠かせない。

【自分との対話】の時間を持つために、【易経占い】は有効な手段の一つである。

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