易経を考えるうえで「シンクロニシティ(共時性)」の考え方は欠かせない。
ユング心理学の成り立ちと思想の概要を考えてみたい。
欧州で初期に易経を評価したユングは、シンクロニシティを唱えた心理学者!
易経は、ユング心理学の観点から語られることが多い。
だが、一般的に私たちはユングが何者で、ユング心理学がなにかを知らない。
最初に、「心理学」とはなんなのか?について見てみたい。
科学の発達と人類
科学は、数値を用いて世界を解明しようとする。 |
私たち現生人類は、ここ二百年ほどの間にいわゆる「科学」を発達させてきた。
科学とは実証性と即物性と数値による照明を「絶対的な事実」とする一つの「思想」である。
その基盤となっているのは、数字である。
数値によって実証されるものだけを科学では真実とみなす。
数値によって示すことができないものは、非科学的とされて、現代では「おとぎ話」とみなされる。
「おとぎ話」は、科学では現実とは認められない。
したがって、易経などは「思想」ではあるが、科学の視点では「おとぎ話」である。
科学は、数字と文字により記録され、さらに新しい科学を自己増殖的に生み出してきた。
現生人類の科学技術は短い期間に急速に発展し、月にまで人類を送り込み、木星、土星、天王星にまで探査機を送り込んだ。
科学がもたらした「数値」という名の「新しい宗教」は、人間世界がそれまで持っていた「価値」をすべて数字に塗り替えていき、「権威」の形まで変えていった。
数値が大きければ大きいほど「善」で「権威がある」というのが科学の価値観である。
「多数決」の原理が権威にとって代わり、民主主義と呼ばれるようになった。
人間世界のすべての価値を数値に変換しようとした時、それはおのずと貨幣の所有が多ければ多いほど価値があるということになった。
貨幣をより多く持てばそれこそが「幸せ」である、というのがこうした科学的な価値観からすれば当然の帰結となる。
GDP、経済成長、平均寿命・・・、ありとあらゆる価値基準が数値となった。
SNSで獲得するフレンズの数、いいね!の数、ランキング、アクセス数・・・。
インターネットの普及は数値的な価値観をいっそう加速させていく。
数値的な価値観と幸福感
遺伝子の構造がわかっても、私たちは生命を生成することができない。 |
だが、数値が大きければ誰もが満足感を得られるのか?と言えば、どうもそうではない。
満足感、幸福感といったものについては、実は科学が「実証」として提示できることと言ったらせいぜいアンケート調査くらいのものである。(これは、「主観」以外の何事でもない・・・。)
そのうち、脳内のドーパミンやセロトニンの分泌量が満足感や幸福感の基準となる日が来るのかもしれないが。
しかし満足感や幸福感といったものはトータルな人間の主観であるため、数値で証明するということになるとなかなかむずかしい。
それこそ脳内ホルモンの分泌を調整すれば満足感や幸福感を得られるか?といえばそうでないことは、抗うつ剤などの深刻な副作用を見ても明らかだ。
また、オピオイドなどの薬物で最終的に幸福になっている人間がいるだろうか?といえばむしろ逆でさえあろう。
これは、生命という現象を科学が解明できないのとも関係がある。
だいたい、科学が発達してきているにもかかわらず、私たち現生人類は、いまだに生命という現象を「心拍が鼓動を続けていること」という定義でしか説明できない。
私たちを構成している遺伝子が、そもそもなんであり、いったいどこから来たのか?
これが生命と呼ばれる「現象」を成立させるのはなぜなのか?
遺伝子の組成は分析できても、それが自律的に活動を繰り返し、意志を持つようになる仕組みや理由については、実のところなにもわかっていない。
さらに組成がわかっていても、科学では生命を組成となっている物質から作り出すことができない。
自己増殖を繰り返す「数値」の力が強大になっている一方で、私たちは自分のことに関してはあまりにも知らないことが多すぎる。
ことに、私たちの「精神」と呼ばれるものに至っては、数値だけでは説明ができない部分が多すぎるのは、生命の謎という問題が科学の数値では解き明かせないのと同じで、ある種の「科学」に対する皮肉である。
つまり、私たちは数値に関しては理解の範囲を急速に拡大してきたけれども、「私たち自身が何者であるかという問題」については、ほぼ無知なままである。
「精神分析」の登場
現代的な「精神疾患」が人間の生活に顕著な影響を及ぼすようになったのは、19世紀以降である。 |
科学文明が急速に発達してきた19世紀、その文明の中心であった欧州では、「精神病」と呼ばれるそれまで見られなかった「現象」が多発するようになっていた。
「ヒステリー」と呼ばれる卒倒現象を始め、精神分裂症、自閉症など、いわゆる「精神が崩壊する」という現象が多発するようになり、医学の分野でもこれを治療するための科学が必要となった。
ここから出てきた科学の分野としては、大脳生理学や認知心理学などがある。
科学が数字を根拠とする以上、これらは脳の構造や働きを数値的に、メカニカルな視点で解明しようとする中で精神病の原因を探る試みであった。
現代でも、理系の「心理学」といえばこの系統を指す。
これは現代の医療の精神科でも基本的に同じような傾向にある。
脳内の異変が、精神の変調に大きな影響を与えている、したがって不足する化学物質を投与し、問題の化学的作用を解消すれば精神は通常の働きに戻る、というのがここでの主要な考え方である。
これは一概に否定はできない。
実際、遺伝的、事故的原因で脳内に異常が見られるケースもあり、そうした場合においては大脳生理学に基づいた薬物療法は非常に有効である。
だが、「精神の変調」というのは、必ずしも脳内のメカニカルな問題だけではない。
現代的な「鬱病」などは、心理的な要因でもたらされることも多く、そこには人生にまつわるさまざまな要因が関与していて、薬物投与だけでは解消できない場合は多々ある。
19世紀末、医学の分野は脳内の機能を少しづつ解明してきていたものの、医学としての科学的治療はどこまでも対処療法にとどまり、薬品や電気ショックで精神病の症状を緩和させる程度であった。
人生の問題、精神的葛藤といった部分に対しては、大脳の機能から解決を探る科学的な方向性にはおのずと限界があったのである。
こうした中で、「人間の精神活動を、数値と切り離して考えなければならないのではないか?」という動きが出てくることとなる。
ここで「精神分析学」という分野を作り出し、「精神の医学」としての心理学の方向性を大きく切り開いたのが、フロイトである。
フロイトと「無意識」
Ludwig Grillich - Christian Lunzer (Hrsg.): Wien um 1900 - Jahrhundertwende, ALBUM Verlag für Photografie, Wien 1999, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2324952による |
フロイトは、夢の研究を通じて精神病の原因の一つが「精神の抑圧」にあるということを提唱した偉大な先駆者である。
19世紀の生活文化が科学の影響で即物的になっていくにつれて、人間の精神領域ではそれまであった「神」の概念が消え失せた。
ニーチェが「ツァラトストゥラ」で「神は死んだ」と書いたのが1880年代のことである。
「神」という概念はいわば数値とは対極にある。
神は社会生活を通じて起こってくるさまざまな矛盾を解決するための、大きなブラックボックスのようなものだ。
どのような不本意な状況に直面しても、それが「神の思し召し」であるということで人は受け入れることができる。
そうしたブラックボックスが消えた時、全てが数値で示されることになる。
それは人間の精神の避難所を廃止するようなものだから、精神病が多発していくというのはあるいは当然のことである。
フロイトは、矛盾や不安を解消するためのブラックボックスであった「神」が消えた結果として、精神の中に蓄積されている不安や不満や矛盾や、それらを我慢することで起こってくる「抑圧」が精神病の大きな原因であるとの仮説を立てた。
その研究の重大な部分は、夢の分析である。
夢というのは、私たちが日常生活をしている「意識」とは異なるものからもたらされているとフロイトは見抜いた。
そして、通常の私達ではない私達ともいえる領域を「無意識」と呼んだ。
無意識はもう一人の自分であり、普段私たちが生活する意識のバックグラウンドで機能している。
私たちが知らぬうちに心の葛藤や抑圧をため込んでいる場合に、この「無意識」が危機を知らせようと意識とコンタクトをとろうとして出てくるのが「夢」であるとフロイトは考えた。
そして私たちは夢を分析し、抑圧されている問題を認識することで精神の混乱を解消することができる、とフロイトは考え、実際に臨床現場でそれを行った。
「カウンセリング」という、患者と医師との対話による治療法を始めたのもフロイトである。
これらは、画期的な試みであったが、科学の世界からの反発は強く、当初のフロイトは激しい批判にさらされることとなる。
フロイトの主張は、ある意味、数値を全ての基準とする科学文明に対する大きな挑戦でもあったからだ。
無意識が、精神に抑圧がある状況を訴えるとき出てくるのが「夢」である、との考え方をフロイトが「夢判断」として出版したとき、理解者はほとんどいなかった。
しかしこの考え方は、20世紀初頭の欧米で次第に受け入れられ始め、やがては大きなセンセーションを起こすこととなる。
フロイトの考え方は今日では心理学や精神医学の大きな基礎となっている。
フロイトが生み出した「カウンセリング」という手法や、夢を解き明かす上での神話の研究などは、心理学にとどまらず広い範囲で現代社会に大きな影響を与え続けている。
しかし、当初のフロイトは四面楚歌で、孤立していた。
だが次第に、フロイトに同調する科学者や医師がゆっくりとであるが集まり始めていた。
医師たちの中にも、従来の数値科学的な手法だけでは多発する精神の混乱や精神病に対処できないとを感じている人は多かったのである。
そうした中の一人に、ユングもいた。
フロイトとユング
unknown, upload by Adrian Michael - Ortsmuseum Zollikon, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=35027304による |
当時、ユングは「連想実験」と呼ばれる研究で注目される医師であり、若手研究者だった。
これは、精神を病んだ患者にランダムな言葉を順番に与えていき、その言葉から思いつくことを自由に連想してもらう、という分析治療法である。
医師は患者の連想が出てくるまでの時間を計測する。
連想するのに患者が戸惑い、時間がかかる言葉とその背景にこそ、患者の精神の核心的な問題(コンプレックス)が隠されている、というのだ。
これはもともとフロイトが研究していたことをさらに発展させたもので、こうした研究を通じてユングはフロイトが提唱する「精神の抑圧が精神病を生む」という考え方や、「無意識」という概念、「無意識」の発するメッセージとしての「夢」という考え方にも共感していった。
当初、フロイトはユングを高く評価しており、自分の後継者として扱うほどであった。
しかし、フロイトとユングには、決定的な考え方の違いがあった。
フロイトは、人間の精神構造の中心にあるものを「性的なエネルギー(リビドー)」であると最終的に結論付けようとした。
性的エネルギーを抑圧しなければならぬ状況からあらゆる精神の病は発生するのだ、というのがフロイトの結論的な理論であった。
これに対し、ユングは「性的なエネルギー(リビドー)」もまた人間の精神の大きな要素であるが、人間の精神の働きにはそれ以外の未解明の領域も多く含まれている、とする考え方を持っていた。
ユングという人は、牧師の家庭に生まれ、幼少期から聖書に精通し、また文学作品にも幅広く精通していた。
彼は当時の欧州で流行していた心霊主義(スピリチュアリズム)などにも関心を持ち、大昔から存在している人類のそうしたオカルト的活動が意味するものはなんであるのか?ということにも強い関心を持っていた。
そんなユングにとって、精神病を「性的抑圧とコンプレックスとの永遠の戦い」と定義しようとするフロイトの考え方はどうしてもすべてを受け入れるのは困難だった。
フロイトとユングの見解の相違は、やがて深刻な対立を生むこととなり、最終的にはフロイトがユングを「破門」する形で二人は決別する。
ユングは大きな後ろ盾を失うこととなり、一時は孤立することになるが、しかしこの時から彼の独創的な研究は始まるのである。
ユングと「集合的無意識」とシンクロニシティ
ユングはインド、中国の宗教概念を深く追求した。その研究範囲は膨大であった。 |
易経とユングの接点は、ユングのライフワーク的課題であった「シンクロニシティ(共時性)」を通じてである。
シンクロニシティ(共時性)とは、なにかが起こる際に、それを暗示させる出来事が発生するのではないか?という仮説である。
たとえば、誰かが死ぬ際に、夢の中にその人が現れる、というようなことである。
偶然の一致ともいう。
たとえば、なにか大きな取引の契約をしようとしている人が、竜巻に巻き込まれる夢を見た。さらには鳥が窓に飛び込んできて窓ガラスが割れた。どうもなにか不吉な予感がし、契約締結を一週間延期したところ、相手の会社が大きな負債を抱えて不渡りを出し倒産したとのニュースが舞い込んできた、といったことだ。
ユングは精神科医であり、学者としてはあくまでも科学的な立場を固持して心理学を研究していたが、幼少期から不思議な経験をいろいろとしてきており、非科学的とされているオカルト分野、また現代では超心理学とよばれる分野(いわゆる超能力の研究)にも強い関心を抱いていた。
心理学においてユングは、フロイトが提唱した「無意識」の概念をさらに追求していった。
そして無意識という私たちのバックグラウンドにあるものが、より深い層ではどうやら「時空を越えた巨大な繋がりの塊」に属しているのではないか?と考えるに至る。
いわゆる「集合的無意識」と呼ばれるものである。
「シンクロニシティ(共時性)」というのは、この「集合的無意識」を考えた時に自然と出てくる考え方である。
私たちの中には、あらゆるものと繋がった領域があり、なにかが実現されようとする時、その衝動は波紋となって世界に現れ、啓示や兆しといったものとして私たちに世界の未来をも暗示するのではないだろうか?というのがこの考え方の基礎にある。
ユングは牧師の家庭に生まれ、幼少期から聖書を読んでいた。
聖書というのは元々は「予言書」であり、その内容には多くの啓示や予言の記述が含まれている。
特に旧約聖書は大半が予言や啓示で占められている。
考えてみると、シンクロニシティ(共時性)とはこうした啓示や予言を心理学用語として表現したものだともいえる。
ユングはあくまでも科学的な精神科医としてのキャリアを重視していたが、同時に自ら瞑想を行い、夢を記録・分析し、膨大な数の神話を調べ、数値では表すことができない人間の精神活動の領域を広く深く探索している。
こうした彼の研究は、「象徴」の研究といってもいい。
シンクロニシティ(共時性)は啓示や予知として現れるにしても、言葉ではなくイメージや色彩や心理的な体験を通じて「象徴」として現れてくる。
ユングは象徴を古今東西にわたり、夢の世界だけでなく宗教の世界、絵画、文学、音楽など芸術領域も含めて研究していった。
広範な領域で制限を設けずに象徴の意味を探ったユングの研究は、その膨大な著作として残されている。
易経が欧州に紹介された時、ユングは当然ながら非常に強い関心を示した。
易経による「占い」と呼ばれるものをユングの研究に当てはめた時、それはまさにシンクロニシティそのものであった。
しかも、易経は非常に古い起源をもち、体系化されたシンクロニシティの指南書である。
それは、まさにユングの研究対象領域の重要なサンプルそのものだったのである。
ユングの功績
ユングの大きな功績は、宗教、芸術、オカルトといった主観的で非科学な領域を、シンクロニシティ(共時性)という概念によりかろうじて科学の中に取り入れたことである。
こうした「非科学」領域を排除することが人間の精神の崩壊を招くということをユングはさまざまな箇所で示していて、それは全くその通りだと思う。
現代の日本では、「不登校」という、子供たちが学校へ「行けなくなる」という一種の精神病が大規模に発生しており、その数はなんと年間で30万人(2023年現在)にも及ぶ。
理由はいろいろと取りざたされているが、すべてを数値で管理し、曖昧な領域を排除してきた結果として、精神が崩壊している子供が激増していると見るのが適切である。
これはある意味、フロイトやユングの扱っていた問題そのもののように思えてくる。
また、「鬱病」を理由とする休職や退職はやはり膨大な数に及んでいて、これもまた深刻な社会問題となりつつある。
「数値評価」という科学的な組織管理は、「曖昧な」領域を学校や職場から奪ってきた。
こうした現状は、すでに欧州では19世紀から見られる現象で、なにも目新しいことはない。
数値で換算するには、人間の精神構造はあまりにも複雑だということだ。
こうした現代において、ユングの示した考え方は、数値では表しきれない私たちの精神世界を改めて認識させるものである。
さらにユングは、精神を脅かす「コンプレックス」や「抑圧」が、外科的手法で排除されるべきものではなく、人間に成長と実現をもたらすための重大な要素であることを示唆している。
こうした考え方は、科学というよりもむしろ宗教的な思想である。
こうした考えを理解するには、私たち自身が宗教的な素養を持つ必要があり、そのためユング心理学は現代でも科学の異端として扱われることが多い。
だが、その意味を理解するもの、思想に共感するものは世界中におり、現代においてもユングの膨大な著作物は非常に重要な役割を果たしている。
易経は、ユング心理学的にはシンクロニシティの一端である!
ユング心理学は、その難解さから多くの誤解もあり、神秘主義やオカルトと混同されることも多い。
しかし、その核心にあるのは、科学と無意識との共存を目指す思想性である。
数値主義科学と非科学領域は共存できる?
人間には、数値だけで説明できない領域がある。シンクロニシティという考え方は、そうした領域を科学と橋渡しするものである。 |
易経占いは、「非科学」である。
易経のテキストは内容はすべて象徴であり、象徴である以上、占う人間にとっては様々な意味を連想的にもたらすものだ。
易経が「シンクロニシティ」として未来を暗示する側面があるかないかについては、私は「経験上、あると思う」とだけ言っておく。
シンクロニシティ自体が主観的なものである以上、私にはそうした言い方しかできない。
しかし、人間はその存在自体が不可解なものである。
科学を推進し、数値を価値基準とする一方で、私たちは神社に行けばおみくじを引くし、それは「当たっている」と感じることも多いであろう。
真面目な科学者でありつつ真面目なキリスト教徒である人も多い。
では聖書がなにかといえば、膨大な数の啓示や予言、すなわちシンクロニシティに関する記録である。(奇妙に聞こえるかもしれないが、事実だ。)
それらは科学とは真逆のものである。
もっとも、現代の科学というものは、せいぜい300年程度に過ぎない。
「数値の宗教」として科学が君臨するようになってからも、まだ200年程度に過ぎない。
ユングが「シンクロニシティ」と名付けた啓示や予言といったものは、極めて長い伝統を持ち、現生人類はその価値を永いこと認めてきたし、実は科学至上主義の現代においても心の内ではそれが存在すると思っている。
数値科学とシンクロニシティとは、互いに相容れない立場にあるが、実は共存はできるのではないのか・・・?
私はシンクロニシティのような現象は実際に存在すると思っている。
それは、予知夢と思われる経験をしたり、死者からメッセージと思しき夢の啓示をうけたりといった個人的な体験を多くしてきているからだ。
一方で、私は数値を重視し、データを分析し、仕事を判断する。
私が易経占いを行うとか、夢の研究を長年している、などといえば驚かれることもしょっちゅうだ。
しかし、私の中では両者は共存している。
そして、予感や暗示や啓示といったことのおかげで、これまで何度となく危機を脱してきた。
なので、迷うことがあれば自分でも易経で占ってみる。
そして大きな示唆を受けることもしばしばある。
私たちは一人ではない
集合的無意識が存在するならば、私たちは絶対的に孤独ではないのかもしれない。 |
シンクロニシティという考え方は、私たちの精神が「集合的無意識」とよばれるすべてが繋がった膨大な領域と接続されている、という仮説である。
だから、私たちが本当に困る時には、私たちが発するSOSは集合無意識に伝達され、その波紋に応じて救済ももたらされることになる。
これは、まさに聖書にある「本当にあなたが必要とするものを神はすべてご存じである」ということをユングは言っているに過ぎない。
科学的にこうしたことには実証性はないのだが、自分とは異なるものからなにか反応があるのだとしたら、私たちは「集合的無意識」と呼ばれる領域を通じて、孤独ではないのかもしれない。
易経占いで、回答をするのは誰なのか?という問題に、シンクロニシティ(共時性)は一つの答えを与えているのである。
あなたは、一人ではない。
あなたの苦悩、迷い、危機は、ユングの考え方からすれば、新しい可能性の萌芽であり、真剣に向き合おうとするときは必ず助けてくれる存在が現れる。
なぜならば、私たちは無意識の底の集合的無意識領域ですべてと繋がっているからだ。
易経は、長い時間の中で体系化されてきた集合無意識とのコンタクト手段である。
そしてこれで自分を占ってみようとするとき、私たちはすでに一人ではない。
現代は数値ですべてを表そうとする中で、人間同士のつながりが変質し、人間の孤独感が増している。
だが、たとえそうであっても、私たちはすべてのものとつながった領域を持つ、とするのがユングの言うシンクロニシティ(共時性)であり、私たちは夢や占いを通じて集合的無意識を垣間見ることができると私は思う。
そうであるほうが人間の精神はむしろ健全なのかもしれない。
数値は、人間世界を説明するには便利だが、人間世界は数値だけでは成り立っていない。
この点を理解するために、易経は現代でも重要な役目を担っているかもしれない。
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