「占い」を行うということは、なんらかの「迷い」があるからである。
「迷い」とは、「死」と「生」の問題から発生することを考察してみたい。
「死ぬ」ことを否定して「生きる」現代
高齢者の介護をしてみると、いろいろと考えさせられることは多い。
日本の後期高齢者たちの実状の一端
「生老病死」とは仏教用語だが、シンプルな人間の真実である。だが、これを事実だと認識している人間は少ないような気がする。 |
私は最近、高齢の両親の介護をせざるを得なくなった。
二人とも体が次第に動かなくなってきているし、認知症も出てきている。
彼らはある種典型的な戦前生まれの日本人であり、職業は学校の教諭をしていた人たちである。(だから余計に問題がある)
もともと私とはまったく価値観も異なる人たちであり、幼少期から私にとってはこの人たちはある意味「敵」あるいは「迫害者」であり、彼らとの記憶にはいいものはほぼない。
私は高校を卒業すると東京へ行き、以来なるべく彼らと接触する機会をもたないようにして生きていた。
実家の町に戻ってからも、近くにアパートを借りて生活し、なるべく接触を避けてきた。
ところが数年前から両親が二人とも入院したり、奇行が多くなってきたため、やむを得ず同居することとなったのであるが、なんということだろう、思いもよらぬことをまざまざと見せつけられる日々である。
この世代の人たちにある程度共通していることは、幼少期は日本が太平洋戦争前後で困窮していた時代に育っていることだ。
だがその後高度経済成長の恩恵を一番受けてきた。
彼らはだいたいみな、「自分が幼い時貧しかった」、「苦労した」、と吹聴したがる。
しかしその実はあまり苦労をしていない人々である。
彼らの多くは、日本の繁栄期に生きて、繁栄を謳歌してきた世代である。
そしてうちの両親に関しては年金を受け取るようになってから早くも30年。
「働かずしてお金が入ってくる」といういわば究極の「ベーシック・インカム」が実現される中、その生きる意味は限りなく「娯楽」となっていた。
貧しかった、苦労した、だのがアホらしく聴こえる。
よほど現代の若者たちの方が苦労のありったけを今後も含めて余儀なくされている。
俳句の会、シルバーコーラスの会や絵画教室に始まり、旅行の会、体操教室、その他、娯楽で暇つぶしできることであればなんでも手を出した。
「豊かな社会」を一番謳歌してきたのはこの人たちだ。
この人たちはこうした生活を長年享受する中で、奇妙な「個人主義」を持っている。
ベーシック・インカムが入ってきて経済的になにも心配がないせいもあるのだが、いつしか「この享楽を永遠に楽しみたい」と考えるようになった。
さらにはそれが「この享楽は、終わるはずはない!」という考え方をするに至っている。
それはさらには、「自分が永遠に生き続けることこそなによりも重要なことだ」に発展する。
気が付くと、一切の「死」を否定するようになっていた。
「自分は永遠に死ぬはずはない」というのが彼らの根底にある考え方であるから、そうもなるであろうが、こうなってくるとある種の怪奇な宗教である。
後先のこと、すなわち自分が死んだら、ということはこの「宗教」では不都合な真実であり、ほとんど考慮されない。
これが私が両親から見る日本の高齢化社会の一端である。
「死」といえば、せいぜい「盛大な葬式で、みんなに感謝されて、位が高い戒名をつけて」といったことしか「死」にまつわることは考えたことがない。
だが葬式の葬儀屋契約だの、戒名だのも「娯楽」の一種である。
なぜならば、死後も自分が生きているかのような錯覚の中でこうしたことを考えているからだ。
「生老病死」は考えないので、自分が認知症になったり、動けなくなったらどうするか?などということは一切考えていない。
不都合な真実
人間は、享楽が当たり前になってくると、「死」という事実から逃避する傾向があるようだ。 |
こうした彼らが、頭がおかしくなり、体は動けなくなり、ということになって長男である私が同居せざるを得なくなったわけなのだが、・・・こうした彼らと対峙するということは、「人間の本質ってなんなのだろう?」と考えざるを得なくさせられる。
まずは、この人たちは思考回路のすべてにわたり「当事者意識」がない。
公務員など似たり寄ったりなのかもしれぬが、金の苦労がないばかりかなにもしなくても自動的に年金も入ってきていたため、「手続き」ということをほとんどしたことがない。
政治にも関心はまるでないし、世間体に関することにはやたらと敏感であるが、その実、自分のこと以外はどうでもいい。
母親は民生委員などやっていたが、近所の貧窮老人が困っているのにほとんど他人事のように無視して、困窮老人がほぼ「餓死」したりもしているが、どこ吹く風である。
自分の享楽に関すること以外はなにも関心がない。
そこに認知症や圧迫骨折が来た。
預金、保険、その他行政手続き等、当事者意識が全くないからなにもわからないのである。
またこの期に及んでも、私がすべて話を聞けばいいとの腹があるから少しでも理解しようとさえ思っていない。
なので、すべて私が代行しなければならなくなった。
もっと重大なことがある。
私には娘がいるが、彼女は海外で育っているから、日本に帰ってくる可能性はほぼない。
また私には妹がいるが、妹は結婚しなかったので子どもはいない。(この女は、両親とすべてそっくりだ。思考回路までコピーだ。両親の介護など一度もしたことがない。自分が当事者ではないと思っている)
実家は巨大な古民家だが、いずれ私もここを立ち去ろうと考えているので、すでに不要物である。
いずれ処分の方法をどうするかを考えるべきだったのだが、そうした「現状に対する変更」のようなことを一切、彼らは考えようとはしなかった。
現状で考えると、私は相続放棄でもしなければどうにもならぬような状況にある。
が、彼らはこうした「不都合な真実」をいまだに一切見ようとはしない。
どうも私とこの人たちはもともと法的には親子であるが、繋がりが金以外ではあまりないような親子関係であった。(今もあるいはそうかもしれない)
彼らは現在、私に世話をさせているが、そのことが国際結婚をしている私に妻子との別居を強要しているという事実に関してはなにも考えない。
彼らは「自分」のことしか考えないのである。
自分たちの享楽的生活をこの期に及んでも最優先し、そのことで息子や孫がどんな悪影響を受けようが知ったことではない。
彼らの個人主義とはそのようなものである。
これは正確に言えば個人主義というよりも、究極の利己主義という方が正しい。
結果的にはどうなるか。
彼らは実家関係のことは一切なにも処理せずに死亡する。
今の段階で処理できること、処理しておかねばならぬことは山のようにあるというのに。
だが、なにもしたくない。
認知症も入ってきて処理がすでにできなくなりつつあるが、それ以前の問題として、自分たちの享楽に影を差すような「不都合な真実」には向き合いたくないのである。
夢は警告する
父親に対しては、実は無意識からさかんに警告が発せられている。が、彼は聞く耳を持たない。 |
父親は、少し前から、さかんに夜うなされるようになった。
どういうことかというと、夢を見るのだという。
夢の中で彼は、頭がおかしくなり、誰の顔もわからなくなり、また日常のすべてが全く分からなくなって、生きていけなくなる。
そうした自分の姿を夢に見るという。
この夢を少し前から繰り返し見ていて、目覚めると不安でいたたまれなくなり、抗うつ剤を飲む。
この人は私が言うことは、昔から一切否定してきている。
だから、そうした夢の話を両親がしていても、私はすでになにも言わない。
だが易者であり夢を長年研究してきた私からすれば、この夢は彼に重大なメッセージを伝えている。
すなわち、彼の極楽浄土の時間は間もなく終了し、彼は実質的に人間であることを卒業する。
「そうなる前に、あなたはやるべきことがいろいろあるのではないですか?」と夢を通じて無意識が彼に警告を発している。
だが、彼はそのメッセージを拒み続けてきた。
今後も拒み続けるであろう。
私は彼が夢からこうしたメッセージを受けていることを知った時から、もはや彼のことは無視して、できる範囲でこの実家を「処分」する方向で事を進めようと決意した。
彼は少なくともあと半年のうちには夢の警告通り、生きていたとしても「人間ではなくなる」であろう。
そして私がこの巨大な実家に立ち尽くしてしまうことなど、考えることはまったくないままそのようになるであろう。
となると、私は私なりに相続放棄も含めて考えなければならない。
私はこういう無責任かつ醜悪なことを娘にさらに押し付けたくはない。
私のところで「負の遺産」は処理してしまわなければならない。
だが、父親に関してはすべてが現状通りであることこそが彼にとってのすべてであり、自分が何もかもわからなくなることも含め、この極楽浄土を否定するものについては一切を拒み続けている。
彼の無意識は彼に「その態度を改めよ」と警告しているのだが・・・。
「死」を前提としない「人生100年時代」?
人生100年時代という「セールス」の文言を、日本人はまともに信じ込むようになっている。だが生きるとは、なんなのか? |
こういう私の両親のような人々は、少なからぬ数いると思われる。
私は死を前提としない生などはあり得ないと思っている。
これは二十代のときからずっとそう思っている。
だから、明日死んでもいいように生きよう、と思って生きてきた。
すでに五十代も半ばに入りつつあるが、ある意味、自分の生を懸命に生きてきて、多くの経験をしてきたから、明日死んだとしても悔いはない。
娘についても、私がいつ死んでもなんとかなるようにしてきた。
私たちが今生きていることは、死がいずれ来ることによって幕を閉じる。
なにもおかしなことではない。
なのに、現代はとかく「死を否定する」時代である。
日本に関して言えば、「人生100年時代」という怪しい標語が独り歩きしている。
「100年生きる」というのは、それ自体は結果論でしかないので、いいも悪いもない。
だがそもそも「生きる」とはなにか?
心臓が動き続けて医療的にただ「生きている」状態であり続けることなのか?
現代ではあるいは生の意味はそんなものなのかもしれない。
しかし、易経や夢を通じて無意識領域から伝えられることはまるで別のことのように私には思える。
私の戸籍上両親たちは、最近はこれまで考えてもみなかった「死」という事実に直面せざるを得なくなっているが、私から言わせてもらうと彼らは「すでに死んでいる」。
100年生きようが生きまいが、宗教哲学的な意味で言ったらすでに死んでいるのである。
なぜならばこの期に及んでも「死」を否定しているから、現在まだ残っている「生」を生きてさえいない・・・。
「死んだらどうしよう?よわったことだ」とばかり永遠に繰り返しつぶやき、血圧が少し高いとなれば5分おきに血圧計を測り続ける。
二時間もだ。
これを延々とやるものだから電池式の血圧計はわずか二日ほどで電池がなくなる。
父親が運転免許センターの認知能力テストにひっかかり、専門医の診断書提出を求められた。
「認知症と確定診断されたらどうしよう?」を今度は延々と繰り返しつぶやき、しまいには「運転免許センターのほうが検査を間違えたか、あるいは別な人の結果を通知しているに違いない。きっとそうだ!」と言い出し(どうしてそういう発想になるのか、すでに病的である)、運転免許センターにカスタマーハラスメントを行い、何度も電話し文句を言う。
運転免許センターにしてみれば、たまったものではない。
・・・死期がやがて訪れるのは自然なことだし、認知症を診断される以前に、すでに同じことをなんど聞いても理解できないわ、先ほど電話したことを忘れ、同じ用件を三度も電話をかけていたりするのは、すでに夢が警告している通りの状況である。
でも、今はまだ「死」にいたるまでまだ「多少の」猶予期間は残されている。
ならば、やるべきことはいろいろあるのではないのですか?そんなに「死んだらどうしよう?」を繰り返しつつ無意味な時間を送っているくらいならば、今できることを必死でやったらどうなのですか?と言いたいところだ。
すでに古民家の周辺は庭木と雑草でとんでもない密林状態になってしまっている。
動ける範囲で草や雑木を刈り取る努力をしてくれるだけでも私は助かる。
娯楽をするために出かける時間があるならば、台所の掃除、トイレの掃除、風呂場の掃除でも少しでもしてくれるならば私は大助かりだ。
私と資産の状況を話し合い、今後相続を含めてどうするかのコンセンサスを決めておくことも、認知症が出ていたとしてもまだ今の段階ならできることだ。
さらに、もっと大事なことがある。
自分がなに者で、どのように生きてきたのかを私や私の娘に伝えることである。
これに関しては私はすでにあきらめてはいるが。
彼らには隠蔽したいことが多く、自分たちの実態を子供には絶対に知られないように、世間体的に聖人君子で居続けられるようにと生きてきた。
あるいは彼らが最も精力を注いできたのがそこである。
私としてはすでに彼らのことは調べて知ってはいるが、彼らはひた隠しにしている。
でも、そういうことを子孫に伝えるということは、本来は重要な仕事なのだ。
完全無欠の人生などというものは存在しない。
カッコ悪い人生経験があったっていいのではないか?
それも含めてのアイデンティティを伝えることで、あるいは親子関係というものは存在するのかもしれないのだが、彼らは世間体的に格好がつく自分の姿しか家庭内においても認めない人々であったから、結局のところ、私の育った家庭では親子関係というものが存在していないのである。
だが、そうしたこと一切を、「死を前提とするようなことは言うな!俺に死んでほしいか!」と頭から否定し、「なにもしない」のが私の戸籍上両親たちであるとすると、彼らはなんだか、すでに生きているとは言えないのではないのか?
「死」を否定した生の実体など、このようなものなのかもしれないが。
「死ぬこと」が当然の事実だから、「生きること」は尊く意味がある
「生」の意味への仮説
生きるとは、期限付きである。悲しむべきことでもない。 |
私は最近、占いなどする以前の問題として、私たちは「生きる」ことと「死ぬ」ことの意味を考えて然るべきなのではないか?と考えることが多い。
実は、易経占いも夢も、この視点が前提とならなければ、意味などないのでは?と私はかねてから思っている。
易経や夢を通じて私たちが知ることの多くは、今生きていることの「意味」に関することなのだ。
そしてこの「意味」の点から、未来や過去との良好な繋がりを求めていくことが必要になってくる。
「死」は、誰にでも平等に訪れる。
私たちが「生」だと思っているものは、期限付きなのである。
生物としては心臓が動き続けているうちは「生」の状態なのかもしれないが、この「生」は使えるうちがすべてである。
「死」に至るまで、どのような意味を「生」に見出すことができるか?この「生」においてなにを経験し知ったか?があるいは「生」のすべてなのかもしれない。
「生」の意味というものを考える時、そこに意味があるかどうかは一つは自分の「生」が他の「生」に還元されているか?「過去」を受け継ぎ、「未来」がより良くなるように使われているか?という点を抜きにしては「意味」など出てこない。
私には、両親の「死」を目の前にした「怯え」の理由が最近はわかる気がする。
彼らは、「生」を自分の享楽のためだけに使用してきた。
子どもたちに対しても還元はほとんどしないで生きてきた。
自分らの世間体のために自分らの過去を隠蔽してきたので、このまま死を迎えた場合、彼らはなにも「繋がり」がないまま、還元性もないままに消滅するであろう。
それに対する恐怖が根底にある。
なぜなら、存在意義がないからだ。
そのことを、実は彼ら自身がわかっているにもかかわらず、なにもしない。
だが、これはもはやどうにもならないであろう。
最終的には、「死」に際して、「繋がりのない生の終焉」を「経験」して今生を終えることになるが、これについては私が教えるわけにもいかないことだ。
こういうことは、残念ながら教えられるものではないのである。
あるいはそういう「生」の使用方法をした場合、最終的になにを感じて死ぬかが彼らの唯一得られる人生からの教訓なのかもしれないのである。
「前世の記憶を持つ子供たち」というアメリカのドキュメンタリー番組を見て、面白いことに輪廻転生という太古から言われている仮説を「経験している」とする実例が豊富にあることを知った。
もっともこれは私がかつて出版社にいたころ、すでにアメリカでは研究がなされているということは知っていたのだが、この番組で面白かったのは、輪廻転生経験がある子供の多くが、今回の「生」である教訓を得るために再び生まれてきた、と語っていることである。
私はこうした分野は専門家でもなんでもない。
だが、こうした考え方と言おうか「生」の意味については、自分の経験上、正しいような気がしてならない。
私たちは、「生きる」という現象については実はあまりにも無知である。
だが、私たちが期間限定で「生きる」という状態にあるということは、教訓をなんらか得るためである、つまり経験で知り、そしてそれを還元するためである、という輪廻転生説が主張していることは、易学とも矛盾するものではない。
易学の法則性からするならば、生きる上での方向性としてはより深く「生」の意味を知り、そして「生」を還元するために使用することしか、「めでたい」判断は出てこない。
占いとは、「生の使用法」にまつわることなのだ。
たいていの悩みとは、「死」を否定するところから始まっている。
死を否定すれば、そこから執着が起こり、「迷い」が生じる。
迷えば、「生きる」ことから遠ざかる。
だが「死」は誰にでも与えられたもので、私たちが人生100年などと言っても本当に主体的に「生きて」いられる期間は短い。
「死」がいつ訪れるかも私達にはわからない以上、今ある「生」をどう生かすか、どう使うかしか意味などないのである。
占いと生きる意味
正統な占いは、生きる姿勢が適切であるかを判断するためのものなのだ。 |
私は来週、父親の認知症検査に立ち会わねばならない。
しかし現代日本は私の両親に限らず、こうした「死」の否定と「生」の所在の喪失がなんと多いことか。
私たちはなぜ未来の見通しを知りたがるのだろう。
理由は人によって様々だ。
たとえば事業等で利益を上げたい人もいるだろう。
片思いの相手と親しくなりたい場合もあるだろう。
自分の行おうとしている選択に迷う場合もあるだろう。
自分の人生がより苦労せず願望通りになることを私たちは望んでいるから、占いという行為が発生することが多い。
だが、易経占いが出す「回答」とは、占う人にとっては意外なものが多い。
これは夢が私たちに知らせる警告も同じである。
これは私が思うに、正統な占いはあなたの「死を否定した願望」に応えるわけではないからだ。
むしろ占いや夢で提示されることは、究極的には「生きることの目的」「生きることの意味」を明確化することに属する。
難しそうだが、これは実は私たちが命題として課せられている基本的なことである。
この点をわきまえた場合のみ、占いというものは人生にとって有益となりうるのである。
0 件のコメント :
コメントを投稿