夢占いから見る象徴とその意味

夢は象徴、占いでの意味は多様で限定できない

象徴(シンボル)の意味が分からないと占いは読み解けない。
象徴(シンボル)の意味が分からないと占いは読み解けない。

易経の世界は、夢の世界と非常に似ている。

易経の卦辞(Explanation of Hexagram)や爻辞(Explanation of Lines)は、イメージの世界だ。

夢から運勢や状況を判断する占いとして、昔から「夢占い」がある。

夢から物事を判断するということから「夢判断」とも言われる。

これは非常に起源が古い。

多くの宗教は、教祖が夢でなんらかの啓示を受けて始まっている場合が多い。

最近は「スピリチュアル」などと言うが、実は私たちは誰もがある意味、毎日夢の中で「啓示」のようなものを頻繁に受けている、とも考えることができる。

今日は、易経占いを読み解くにあたって、夢との関連性について少し書いてみたい。


夢が見せる様々なメッセージ

夢の世界は実に奇妙である。
夢の世界は実に奇妙である。夢の伝達手段は言葉ではなく象徴である点は重要である。

私の場合は、幼少期から「予知夢」と思われるような夢をよく見ている。

たとえば、夢の中で見知らぬ老婆が出てきて「飯塚さんが亡くなった!」と言う。

数日後、親戚の飯塚さんが亡くなった、という知らせが来る。

また、取引先のある人物が夢の中でなにやらすまなさそうに私に詫びる。

数日後、その人物から予定していた取引の中止を詫びる電話がかかってくる、というようなことだ。

こういったことは非常に分かりやすい事例だ。

かなりダイレクトに、少し先に起こることを私の無意識が知らせている。

疑う人も当然おられることと思う。

「そんなのは、たまたまの偶然に過ぎない」

というのが一般的な科学常識の考え方だ。

しかし、私は幼少期から数え切れぬほどこうした体験をしてきている。

なので、「占い」と呼ばれること、また未来予知とよばれるようなことを完全に否定することがどうしてもできない。

ところで夢というもの全般を考える時、このような「わかりやすい」夢ではない場合の方がはるかに多い。

スピリチュアルと呼ばれる分野が出版している「夢占い」のように、そんなにすんなりとは解釈の仕様がないのが夢の世界である。

たとえば、夢の中で私は大学受験を控えている。

そして、本番の試験が間もないというのに、数学が全然できないので困っている。

あとひと月あまりしか時間は残されていない。

どうしよう?

微分積分の複雑な問題を解かねばならないのに、因数分解を忘れてしまって久しい。

まいった!どこから手を付けたらいいのだろう・・・?

などと私は夢の中で苦しむ。

そしてふと、大学受験だって?・・・俺は、三十年も前に大学を卒業しているじゃないか!

などと思い、現実に戻り、目覚める。


さて、これを「夢占い」のサイトなどで「受験勉強」「不合格」などをキーワードにして検索してみると、一般的な「夢占い」においては、「現実逃避の傾向が強まっている」とか、「不合格は典型的な逆夢であり、現在取り組んでいることが成功する暗示」とか、「仕事等のストレスが高まっている」などと出てくる。

しかし、どうもどれもしっくりとは来ない。

なにかが、自分が夢から受けている印象とは違う。

みなさんも、こうした経験はあるのではないだろうか?


私は、28歳頃から、気になる夢を見た時には手帳にメモを残しておく習慣がある。

日付は必ず入れておく。

さて、そのようなメモを日常的に残しておくと、意外なことがわかってくる。


先ほどの大学受験の夢であるが、これはメモを見てみると、ある時期において一日おきとか一週間に二回といった頻度で見ていることに気づいた。

また時期によって大学受験ではなく高校受験であったり、問題となっているのが数学ではなく国語であったりしていることに気づいた。

また、大学受験ではなく、高校の出席日数が足らない、というような夢もある。

つまり、大学受験の夢を見たと思っていたところ、似たような夢を頻繁に見ており、しかもそういう夢を見始めると、何度も似たような夢を連続的に見ている、ということに気づいたのである。

私はこうしたメモは、仕事でも使用しているスケジュールとメモが一緒になった手帳に書き記すことにしている。

そうしておくと、その前後で仕事ではなにがあったのかを参照することができるからだ。

そして現実世界での自分と照らし合わせながら夢のメモを眺めていると、さらに気づくことがあった。

大学受験の数学でもう時間がない、というような夢の後は、経理や決算や資金繰りなどで処理しなければならない問題がなんらか発生している。

また国語や作文が問題となっている夢の時期には、作成しなければならない書面や文書が手つかずのままになっていたり、従業員との間で話し合わなければならない問題があるのに放置している、といった状況があった。

面白いことに、私がそうしたことに気づき、経理の処理や文書の処理に取り組むようになると、こうした夢はぷっつりと見なくなった。


私は思うのだが、夢というのは本来は「警告」である場合が多い。

最初にあげた取引先の状況が変化し、取引自体がなくなってしまう、というのは明かな警告であるが、そういう仕事上のことでないにしろ、なにかしら「気づきなさい」という意味合いで夢は「見せられている」ような気がするのである。


一般的な「夢占い」の問題点

一般的な「夢占い」については、「象徴」というものの本質を少し誤解している面があるような気がする。

「象徴」とは、一つのイメージに対して一つの意味しかないわけではない。

たとえば、「魚」の夢を見たとする。

よくあるのは、「魚」=「アイデア」といった、辞書的な「意味」を与えるパターンの夢占いだ。

しかし、人によっては「魚」=「女性」かもしれない。

「魚」=「キリスト」という意味もあるという。

もし、「魚」=「アイデア」というように意味を限定してしまったら、それは夢が伝えていることを、大きく取り違えてしまうことがありうる。

「象徴」は、それに対応する「意味」を辞書的に与えることでは理解できないものだ。

なぜなら、「象徴」はむしろ連想的に意味を無限に想起させていくから象徴なのである。

個々人によって意味がすべて異なってくる。

夢は、基本的にすべて「象徴」である。

だから、一語一義で辞書的に定義づけることはできないものなのだ。

「魚」=「アイデア」という一義的な意味合いで象徴を限定してしまうとしたら、それはむしろ危険ですらある。

ユングは、夢の象徴が様々な意味を同時に持っていることに着目していた。
ユングは、夢の象徴が様々な意味を同時に持っていることに着目していた。

こうした夢の象徴性に対する誤解は、ユングの原型論の取り違えから起こってきているように思う。

C.G.ユング博士は、夢に関して大きな考察を行った人物であるが、彼はある時期、原型論に凝っていた時期がある。

これは、人間の夢に出てくるイメージには、人類共通のもの、「原型(アーキタイプ)」があり、それは人間の持つ本質的な精神のパターンを表しているのではないか?という仮説である。

この考え方を「狭く」解釈すれば、それこそ「魚」=「アイデア」、「大学受験」=「現実逃避」あるいは「ストレス」といった基本的な意味を当てはめればそれで夢を解釈できるという安易な考え方も出てくる。

だが、ユング自身はこうした解釈についてはその後、明らかに否定しているし、彼自身が唱えた原型論に対する世間一般の誤解をまねいていることを深く反省もしていたふしがある。

彼の後半の著作を読んでみたらわかるが、彼は象徴というものを様々な神話や文学作品を通して「永遠に終わることのないなぞなぞ」のように考えていた。

そして最終的には、「夢」に出てくる象徴が伝えるものについては、その夢を見た本人が気づくべきものであり、辞書を引きながら外国語を読むような解釈は極力避けるべきだ、という考え方を明らかにしていた。

ただし、夢に現れる象徴を一つのエネルギーとしてみた場合、そこには「基本となる性質」がある。

原型論とは本来、そうしたエネルギーとしてあらわれてくる象徴の性質に関する分析である。

ユング派の分析心理学は、その基本性質のみを大まかに把握し、夢を見ている当事者に対して大まかな助言をするだけである。

これがユング自身が考えていたカウンセリングであったと思う。

ユングは、人間には自分で問題を解決する能力があり、また精神的な問題は本人が解決していくしかないものだ、という信念を持っていた。

だから、ユング自身の著作では、博覧強記で夢に出てきた象徴がもたらす様々な例を挙げてはいるが、ユング自身は他者が観ている夢については、「いい」とも「悪い」とも判断はつけなかった。

夢の象徴には無意識からのメッセージがあり、それは常に私たちになにかを気づかせようとしている。

それをどうとらえるかは患者自身が感じ、考えなければなにも意味はない、というのがユング博士の基本的なスタンスだった。


「夢占い辞典」のようなものは、夢の象徴の基本的な性質を知る上ではいいだろう。

だが、ユング博士が言っていることはまさしくその通りで、夢に出てきたことにいちいち辞書的に意味を当てはめていけば夢のメッセージを理解できる、とは考えない方がいい。

むしろ、夢はその全体から受けている印象が重要なのだ。

特に、現実とは明らかに異なる部分に、「あれ?」と違和感を覚えたような部分が、実は無意識が最も伝えたいことを含んでいる場合が多い。


夢はなにかを伝えようとしている

あまり長くだらだら書きたくないのだが、もうひとつだけ例を挙げる。

ある人が、最近、同じ夢ばかり見る、と私に相談してきた。

彼は、疎遠な両親のもとに育った。

現在、奥さんと娘がいる。

両親は学校の教師をしていた人たちだが、幼少期から両親は彼の二つ下の妹ばかり溺愛し、彼は祖父母の下に預けられて育つ、という特殊な人生経験をしている。

さて、彼が頻繁に見るようになった夢は、夢の中で奥さんが娘とはちがうもう一人の男の子を抱いている。

そしてこれは新しく自分に生まれた子供だ、という。

彼は、「え?そんな子はいないじゃないか?それはいったい、誰の子だ?」と強烈な違和感をもって目覚める。

(この、「強烈な違和感」に注目だ。

たいがい、そこに夢のメッセージの核心がある場合がほとんどである。)

このような夢を、この半年ほど彼は繰り返し見ている、というのだ。

実際には存在しない子供がいる夢。
実際には存在しない子供がいる夢。「誰の子?」という違和感。このような「違和感」に、重要なメッセージが込められている場合が非常に多い。

一般的な「夢占い」では、「妻の浮気は逆夢で、あなたのことを妻が愛している証拠」とか、「子供が産まれるのは新しい可能性が出てきているということ」などと出てくるが、彼の夢の印象には当てはまらない。

私は彼と最近の状況についていろいろと話を交わした。

彼はこのところあた、両親が妹の肩ばかりもち、彼の意見や気持ちを徹底的に無視することに悩んでいた。

「実は、私はひどく訳アリの人間ではないだろうか?って思うことがよくあるんです」

どうも、このへんに彼の夢の伝えようとする核心がありそうな気がしたが、その日は二時間ばかりそんな話をして彼は帰って行った。

ひと月ほど後、彼から興奮した声で電話があった。

「わかりました!あの夢の意味が、わかったんです!」

彼は、父親が認知症の様相を呈してきたので、実家の登記上の書類を確認しておいた方がいいと思い、登記書類の整理をしていたところ、父親が一度離婚をしており、母親も一度離婚していることを知った。

父親は最初の妻と離婚してから半年後に、見合いで母親と結婚していたが、母親は職場の関係で彼が生まれる以前は父親とは別居の状態にあった。

「なんで、私が祖父母のところに預けられて育ったか、よくわかりました。

つまり、別居状態でできた私を、父親はあの夢と同じように、『そんなの、俺の子じゃない!いったい誰の子だ!』と思った、ってことなんです。

父親の心境としてみれば、私は不貞の子で、どうしても自分の実子だと思えなかったのでしょう。

ああ、そうだったのか、って、なんかあの夢の意味が分かったとたん、自分の中にあった長年の疑問が氷塊した感じです!」

その後、彼はこの夢を見なくなった。

彼は妹と自分の間に存在する両親の「区別」に長年悩んできたが、その理由を知り、両親にも「客観的」に接することができるようになった。

期待もしなくなったが、失望もしなくなった。

これは、実話である。

「夢など・・・」と否定する人もおられると思うが、夢は非常に不思議なもので、自分が知らない事実をも暗示するということはよくあることである。


夢占いや易経占いで象徴の意味を考える手法

固定した意味でなく、連想で意味を探る

象徴を読み解くには、「自由連想」が最も適切だ。
象徴を読み解くには、「自由連想」が最も適切だ。辞書的に意味を固定してはならない!自由に連想していく。

「自分が抱えている問題に気づかせるヒント」という夢の象徴的意味合いは、易経での占いについてもそのまま当てはまる。

易経で得た卦(Hexagram)が示す象徴をめぐっては、その卦(Hexagram)を出した本人がそこからなにに気づくのか?が問題なのである。

易経だけではなく、タロットカードなども同様であり、それらの意味を深く知りたいと思うならば、私たちはいずれにせよユングが最終的にたどり着いたようなスタンスに立つしかない。

「固定された意味がない」ということは、自分の中でそこからどのような意味でも仮説として当てはめてよい。

そうした試行錯誤の中で初めて占いというものも本当の意味を持つ。

なので、易経占いにおいても出てきた結果に対しては、自由に連想してみるのが一番良い。

今の自分の状況と照らし合わせてみることが重要だ。

特に、「え?どういうこと?」と違和感を感じる部分については特に重要であって、多くの場合、そこに自分が現在気づいていない問題解決への重要なヒントが隠されている。


メモを残すことで、さらに自分の内面を知る

市販の右側にメモスペースがある手帳。
市販の右側にメモスペースがある手帳。夢や易経の記録を残すにはこうしたありふれたものが最適である。自分の状況も振り返ることができる。

先ほど私が見た夢のメモをとっていることをみなさんに紹介したが、夢でも易経でも、何か気になる「象徴」を得た場合は、手短でいいからメモする習慣をつけることをみなさんにはおすすめしたい。

夢の世界について、ユング博士はイメージが次第に形を変えつつ発展していくという特徴を声を大にして提唱している。

だが、実は易経占いについても同様のことが言えるのだ。

そうしたことは、メモを取る習慣を作ると、次第に自分の中で何が起こっているのかが見えてくる場合が多い。

易経占いでは、「同じことを尋ねてはならない」という原則があるが、状況が変化してきたら、私たちは自然と同じことを現在の状況に当てはめて占ってみるのが自然である。

易経占いをメモするのであれば、その時の状況もわかるようにしておくのが望ましい。

したがって易経のメモも、夢のメモと同様にメモスペースが豊富にあるスケジュール手帳を用いるのが適切だ。

そして、易経占いを行った際には、これまでのメモを読み返していくとよい。

面白いことに気づくはずだ。

易経の示す世界も、次第に状況がストーリーを描いて繋がっていくのである!

状況は常に変化している。

あなた自身も常に変化している。

現在の状況に至るまで、どのような象徴が出てきているかは、あなたを取り巻く状況推移でもあるし、あなた自身の内面の推移でもある。

そうした大きな流れを把握することが、占いの結果を判断するにあたっては大変に役立つ。

あなたの抱えている問題は、最終的にはあなた自身がその意味を納得することでしか解決しない。

だが、あなたには無意識から夢が毎日のように貴重な助言を与えてくれている。

易経も、占うことであなたに助言を与えてくれるものだ。

注意すべきは、夢も易経も、解決そのものを与えてくれるのではないという点だ。

解決につながるヒントを与えてくれるだけである。

それを生かすのはあなた自身の考え方と行動である。


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