易経に問題を尋ねる際は、どのように尋ねるのか?

易経は、占いの書であるが、占いに使用する場合、明確な意思を持っていると感じさせられることがよくある。

もし、易経がなにかの意思を伝えるとするならば、私たちは占うにあたってどのような態度で臨めばいいのか?

今回は、占いを行う際の基本的な態度について書く。

占いは、もともと非科学的なものである

易経を自己分析に使用するということは、一見、荒唐無稽だと思われる方も多いと思う。

占い全般が、科学的な立場から観れば、「非科学」なものである。

それは、私自身も認める。

占いが非科学である理由は、数値的な実証が困難だからである。

占いが扱うのは、非常に主観的な問題だ。

占いの目的が未来予知にある場合、占いが当たっているかどうかは、あなたの主観の問題である。

これは数値で表現することはできない。

ましてや、易経占いの場合は、目的は未来予知というよりもあなたが現在とるべき態度を探ることにある。

これは内面的な、非常に主観的な問題である。

主観は、外部の人間ではわからない。

主観を知るのは、自分自身である。

占いは主観が感じる問題であるから、科学の前提である「客観的な証明」が不可能なのだ。

占いが非科学的であることは、当然である。だが、科学では説明できないことは多い。特に人間の内面心理に関わることは、非科学的な問題である。
占いが非科学的であることは、当然である。だが、科学では説明できないことは多い。特に人間の内面心理に関わることは、非科学的な問題である。


主観と納得と行動

でも、非科学であることは、主観を分析するという易経の目的には影響は及ぼさない。

主観はそもそも科学ではないからだ。

人間は時には不合理に行動する。

私たちは、数字での評価を重視する社会に生きている。

だが、私たちは時には数字の良しあしを基準に行動はしない。

その場合、私たちは自分の感情や、数字で表現できない自分の中の原則に従って行動している。

私たちは多くの場合、主観を満足させるために行動しているのだ。

結局のところ、私たちはいくら数字での評価が高いことでも、主観がそれを受け入れなければ、やらない生物なのである。

どんなに大金を持っていても、インスタントラーメンが食べたければ食べるのが人間というものだ。

結局、自分が納得しないことをやっているならば、人間は満足しない生き物だ。

そう、人間の行動の動機は、実は科学でも数字でもない。

主観の納得がなければ、人間は本当のところ、行動などできない。

私たちは、必ずしもお金のために行動はしない。結局のところ、私たちは自らの主観が望むように行動している。主観が望まなければ、私たちは行動できない。
私たちは、必ずしもお金のために行動はしない。結局のところ、私たちは自らの主観が望むように行動している。主観が望まなければ、私たちは行動できない。


主観が変化するならば未来も変化する

易経は、元々、古代中国において国家の大きな方針を決定する際に使われてきた。

実は、中華世界では今も生きている。

中華世界では、れっきとした地位のある人間が、自分の行動を決定する際の指針として現代でも易経を使う。

なぜなのか。

それは、易経が単なる吉凶判断を行うおみくじではなく、自分の内面の世界との対話を行うための道具であるためだろう。

実は、正確に言うと易経は未来予測を意味する占いではないのである。

易経が提示するのは、現在の内面であり、現在の主観の姿である。

その状態で行動した場合の、結果の良しあしの暗示である。

だから、主観が変化するならば未来も変化する。

未来は、易経の中では確定していない。

確定させるのは、占う人間の自由意思と行動である。

中華世界では、易経占いは人々の日常に生きている。社会的地位のある人でも、道教寺院の易経の判断を参考にする。
中華世界では、易経占いは人々の日常に生きている。社会的地位のある人でも、道教寺院の易経の判断を参考にする。


易経には人格がある

以前、私は易経占いとは集合無意識へのアクセス手段の一つではないか、との仮説を持っていることを書いた。

集合無意識が、もっとも身近に現れるのは、夢だ。

フロイトは、夢を性的欲望と関連付けたが、しかし私はユングと近い考え方をもっている。

夢は、集合的無意識がなにかを伝えようとしていると思われるケースが非常に多いように思う。

そして、その場合、夢には人格を持った人物が登場し、予想もつかない行動をとったり、予想もつかぬようなことを言う。

易経が、集合無意識へのアクセス手段であるとするならば、易経もまた、夢に出てくる人格を持った何者かと同じような存在ではないかと筆者は考えることがある。

だから易経を占いの手段として用いる場合、あるいは自己分析手段として用いる場合、私たちは、易経を一つの人格として認識する必要があるのではないだろうか。


易経に表現される世界は、夢の世界と似ている。

そこには登場人物がいる。

あるいは、場合によっては易経自身が私たちに発言をする。

そこには予定調和はない。

予想もしなかった表現で、易経は私たちの現状や、私たちの今後の見通しを指摘する。

夢に出てくる人物が、明らかに私たち自身ではなく、人格を持った存在であるように、易経も独自の人格を持った存在であると私は仮定する。そう考えなければ説明できない現象が多いからだ。
夢に出てくる人物が、明らかに私たち自身ではなく、人格を持った存在であるように、易経も独自の人格を持った存在であると私は仮定する。そう考えなければ説明できない現象が多いからだ。


だから、私たちが易経で自分のことを占おうとする場合、実在する人物に、なにかを相談するのと同じ姿勢をもつことが適切である。

経験上、そうしたほうが易経はきちんとある種の人格を持って応える。

奇妙に思われるかもしれないが、集合無意識とはそうしたものだ。

集合無意識は、世界のすべてと時空を超越してつながっているとユング心理学では考える。

しかし、私たちがなにかを問う場合は、集合無意識はひとりの人格として応答する。

集合無意識は、人格をもって私たちと向き合う存在なのだ。

ちょうど夢の中の人物と同じように、集合無意識は私たちからは明らかに独立した存在として応答するのである。


易経に問題を尋ねる際は、どのように尋ねるのか?

私たちが易経で悩みを占う場合、誰かに自分の抱えている問題を相談するような態度で問うたらいい。

あなたが、もし自分の悩みを人に相談するとしたら、どうするであろうか?

あなたはまず、事の顛末を相手に説明するだろう。

どうして今のような状況になってきたかを、あなたがまずは説明しなかったら、相手も応えようがない。

今の状況に至るまでの経緯を話し終えたとして、あなたは次はどうするだろうか。

自分が、なにをどうすべきか、相手の意見を求めるのではないだろうか。

「自分がなにをどうすべきか」という問題は、つきつめれば、「ある行動をするか、それともしないか」という点に要約することができる。

たとえば、恋愛の問題であなたが悩んでいるとしよう。

あなたが私に相談するとしたら、どうするであろうか。

まずは、パートナーとの関係を、出会った状況から、今に至るまでの経緯として説明するであろう。

そして、あなたは今、どういう状況で悩んでいるか、を話すだろう。

その先は?

相手に意見を聞くということは、結局のところは、「なにかをすべきか、しないほうがよいか」の二択に絞ることができる。

これは、どんな問題でも同じである。

結局のところ、そこが悩みの核心なのである。

「相手に、自分の考えを伝えたほうがいいか、伝えない方がいいか」

「相手の希望を受け入れたほうがいいか、受け入れない方がいいか」

「相手との関係を継続する方がいいか、関係を断ち切る方がいいか」

程度は状況によって異なる。

だが、あなたがここまで問題を整理してくれないと、カウンセラーは意見を述べることはできない。

これが、占いを行う場合でも、誰かに相談をする場合でも、あなたに必要なことである。

つまり、悩みを、「行動する、しない」まで整理するのである。

「Yes or No」でもよい。

あなたが誰かに相談する場合、悩んでいるのはカウンセラーではなく、あなた本人だ。

相談したうえで、行動するのはあなた自身だ。

相談とは、あなた自身が直面している問題点を整理する機会に過ぎない。

易経占いも、目的の大半は、あなたが占いを通して自分の置かれた状況をよく見つめ、考えを整理することに他ならない。

悩みは、結局のところ、「行動を起こすか、起こさないか」の問題である。そして、行動を起こすのも、起こさないのも、あなた自身である。
悩みは、結局のところ、「行動を起こすか、起こさないか」の問題である。そして、行動を起こすのも、起こさないのも、あなた自身である。


行動すること!

あなたは、易経占いを通じて、自分の現状をまとめ、易経に相談する。

真に重要なのは、その後である。

易経も含めて、占いは占うだけではなにも変わらないのである。

「あなたの状況は、正しくバランスがとれている。行動してよろしい」

という結論が出たとしても、それはあなたが実際に行動して初めてめでたい状況につながるのである。

「あなたは、能力もないのに行動に出ようとする。凶となる」

という結論が出たとしても、それはあなたが現状のままで行動すれば、凶である、ということを示す。

では、あなたが易経のアドバイスを受け入れて、今行動することは中止し、あなた自身の能力を身に着けるために努力するとする。

あなたは行動していい時期まで待つとする。

このようにして、あなたが現状を変更したら、どうなるのだろうか。

その時は、あなたの前提条件が変わる。

前提が変われば未来も変わる。

結局のところ、相談でも占いでも、結果を判断するのはあなただ。

そしてどう行動するかはあなたの自由意思次第だ。

あなたが誰かに相談するのは、行動するためである。

同様に、あなたが占いを行うのも、行動するためである。

占いにも様々な種類のものがある。

行動を前提としないならば、あなたはテレビで毎朝やっている星占いを観ていればよい。

あるいはウェブサイトの毎日の星占いを観ていればいい。

それは決して無意味なことでもない。

易経を占いとして用いるのであれば、それはあなたが行動するための指針を得るためである。

誰かに相談するのも同様である。

現状を変えるためには、行動が必要である。しかし、行動しないということも一つの行動である。易経占いは、この点に回答を与える。
現状を変えるためには、行動が必要である。しかし、行動しないということも一つの行動である。易経占いは、この点に回答を与える。


意外と占いの必要がないクライアントは多い

私のもとには、「占いをやってください」という人が連絡してくる。

私は直接連絡をもらった場合は断らない。

でも、易経占いを行う必要がないケースはけっこう多い。

どういうことかというと、私は占いを行う場合、まずは相手の話を聞く。

そして相手の問題点を、「行動するか、行動しないか」まで絞り込む。

それで初めてクライアントに硬貨三枚を落とす作業をやっていただく。

しかし、問題を「行動するか、行動しないか」まで絞り込めない人は多い。

多くの場合、私に相談してくる人は、実は自分自身への変化を求めていない。

あるいは、私に相談してくる人の多くは、自分は変わりたくないが、周囲が変わってほしいという願望をもっている。

自分への変化を求めていない人は、「行動するか、行動しないか」ということを考える段階になると、「えーっ!でも・・・」と言い出す。

こうした場合、彼らにとって易経占いは不要だ。

なぜならば、結論は既に出ている。

「行動しない」あるいは「今は行動したくない」あるいは「変わりたくない」というのが、クライアントの意志だからである。

ならば、占いの必要などあるだろうか?

行動を起こすことを今は考えることができないならば、あなたはそれでいいのである。その場合、あなたには易経占いは不要である。
行動を起こすことを今は考えることができないならば、あなたはそれでいいのである。その場合、あなたには易経占いは不要である。

私は、こうしたクライアントを非難しているのではないことをご理解いただきたい。

それならば、それでいいのである。

「現状維持」もまた選択肢の一つである。


行動哲学の書

易経は、行動哲学の書である。

あなたがもし、現状維持が困難な状況にあるならば、易経を一人の人間と想定して、このブログにあるやり方で硬貨三枚を布に落として占ってみればいい。

易経占いは、占い師がいなくてもあなた一人でできる。

あなたが一人で易経占いを行う際は、最初になにを易経に相談したいかを紙に書き出してみることをお勧めする。

易経占いを行うにあたっては、なにを易経に尋ねたいのかを書き出してみるといい。問題の経緯、問題の状況、あなたの希望、そしてどうしようとあなたが思っているか。まずは書き出そう。目上の賢者に、相談事の手紙を書くような文体で書いてみるといい。あなた自身が問題を考えることが、易経占いでは最初のステップである。
易経占いを行うにあたっては、なにを易経に尋ねたいのかを書き出してみるといい。問題の経緯、問題の状況、あなたの希望、そしてどうしようとあなたが思っているか。まずは書き出そう。目上の賢者に、相談事の手紙を書くような文体で書いてみるといい。あなた自身が問題を考えることが、易経占いでは最初のステップである。

あなたは手紙を書くような文体で書けばいい。

あなたが問題とすることの発端、そして経緯。

あなたがなぜ、この問題に悩んでいるのか。

そしてどうしたいのか。

あなたがそうしたことを書いていくうち、易経占いの必要はなくなるかもしれない。

占いなどせずに、行動に出るならばそれでよい。

また反対に、あなたがいろいろ紙に書いてみて、今は何もできないと思うならば、それもよい。

しかし、あなたが「行動するか、しないか」でどうしても悩むのであれば、易経占いをやってみればよい。

その際、あなたは人格ある存在と話をするように易経占いを行うべきである。

集合無意識に敬意をもつことが大切だ。

あなたが真摯であれば、集合無意識はかならずあなたに応える。

非科学的であるが、集合無意識とはそういう存在である。


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